N爺の藻岩山麓通信 |
今日8月16日は盆の送り日。
昨日、江別のT寺から領収書が届いた。寺院経常費として6千円なり。 滅びゆく檀家制度の証文のように見えた。 30年ほど前に札幌市厚別区に家を建て、群馬でひとり住まいとなっていた父を引き取ったとき、大きな問題になったのはお墓とお寺さんをどうするかであった。 公営の墓地は空きがないので民間の墓地を手当てして、群馬の墓から母と妹の骨を分骨した。そうして、ある大きな寺の檀家総代を務める大学の先輩に相談して近くの浄土宗のお寺さんを紹介していただいた。お墓は札幌市南区藤野、お寺は隣町の江別市野幌ということになった。北と南にばらけて不便だが仕方ない。新興住宅地の多い厚別区に比べて移住開拓の歴史が古い江別は寺院の集積がちがう。 群馬の墓は前橋市の郊外、養林寺という徳川の家臣牧野家の菩提寺のなかにあり、法事のいっさいを寺内で済ませることができた。そんな利便性以上にありがたかったのは、由緒あるたたずまいと住職ご一家のいつもあたたかい応接であった。 こちらは郷里を捨てたに等しい人間である。そんな郷里に、まるで北海道の人のようにおおらかに迎えてくれる人たちがいた。訪ねるたびに赤城山麓の水を飲むような安らぎに会えた。 墓は市道の拡幅に抵触したおりに、移転しないで養林寺にお還しすることにした。墓参においでになる方がほとんどいなくなっていたので、公共工事の補償で更地に戻してお寺にお還しできるのはありがたかった。 東京は近いが赤城の山麓は遠い。 案内を郷里の親族に差しあげ、さいごの法事を寺の離れで行った。名前のわからない年配の女性が「お父さんには世話になってね」と親しげに声をかけてくれたが、どなた様かとは聞けない。父は5人兄弟の末っ子だが甥や姪の面倒見がよかったらしい。 親族といってもつきあいの浅い深いはあり、たいがいは浅い。それを承知で仁義を切る。互いにそれはできたろう。そのための法事であった。 お寺さんご一家に長年のお礼を申しあげて郷里を去った。 厚別区から中央区に移住して15年がすぎた。 江別のお寺さんとのご縁をどうするか。むつかしい問題が残った。檀家制度の現状についてそれなりに知っていたからである。 家から歩いて5分ほどのところにあるK寺は江別のT寺と同じ宗派の寺院である。厚別からこちらに引っ越した際に担当のお寺も近くに替わってくれたらよさそうなものだが、檀家制度の下ではそうはならない。父母兄弟の命日の供養のときには大雨でも吹雪でも江別から若いお坊さんがやってくる。一度だけ、猛吹雪のときに江別のT寺に替わって近所のK寺がピンチヒッターを務めてくれたが、向こうさんが相談されてそうなったのであり、わたしの選択ではない。 江別のT寺を訪ねたことはない。 実質的に年金生活者になろうとしたとき、暮らしの始末をどうするか、いろいろと考えた。 貧者の一灯というほどにも追いつかないが、貧困問題や教育、福祉、医療など民間の支援を必要としている活動にささやかな献金を続けてきた。削るのに忍びない分野である寄付をまず減らす。その手で、さまざまなつきあいを減らし、暮らしの習いになっていたことどもをざっくりと見直す。 妻と話し合って供養は家族だけでやることにした。これまでと変わらず心を込めて。 それで、T寺とはお寺の維持費をお支払いするだけの関係になった。 無宗教の家族葬が非難されない時代である。檀家制度がどうなるか、考える人さえもうじきいなくなる。 お寺さんと檀徒という関係がうすくなるだけでなく、存在そのものが世間で少数派になる方向にあることはまちがいないだろう。なにか、人生の大切なおつきあいのひとつがなくなっていくさみしさが残るとしても。
by waimo-dada
| 2013-08-16 12:52
| ライフスタイル
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