N爺の藻岩山麓通信 |
一編の小説を読みはじめて、ふと、読んでいる時間とは別の時間が流れはじめることがある。松家仁之(まついえまさし)著『火山のふもとで』(2012.9 新潮社)を読みはじめてまもなく、その山の麓で旅をしてきたことどもを思い出していた。
その思い出の時間が本を読みながらとぎれとぎれに流れ出し、今と過去が重なりあって体のなかを生きはじめた。わたしもまた生きてきたのか、と我が身がこの世に連なるようでうれしくなった。 この本には戦後に生まれてごく普通に生きてきたわたしのような人間でさえ、だれかに話しかけたくなるような、愛惜の念を生む何かがある。 おそらく100人が読めば100編の書評が綴られる。語りはじめればとまらない、幾重にもいとおしい感情を愛惜というなら、この小説を語るキーワードはそれをおいてほかにない。 「七月末から九月半ばまでの、ひと夏の時間。それが小説の展開にしたがって、ゆったりと、しかし緊密に出現する。私たちはその時間を愛惜するのだが、小説を読了した後の気分としてではなく、読みながら一刻一日が過ぎてゆくのを愛惜しているのに気づく。」(湯川豊の書評。2012.11.18、毎日新聞)。 この本にふれた読者が持つ代表的な愛惜であろう。わたしもそのひとりだ。読み終わりたくない・・・、そんな感情を生む、近年まれに見る小説となった。 標高2,568mの活火山、浅間山の山麓は火山礫と火山灰の大地である。 日本を代表する避暑地となった軽井沢の近代は、緑で覆われていない。疎林が目立つ、乾いた火山の麓にすぎなかった。今のように深い緑陰をたたえる夏を迎えるようになるには人の手が必要であった。荒れ地にも育つカラマツなどの分厚い植林の時間を経て今の軽井沢が築かれた。 土地はやせているが、豪雪、豪雨に見舞われる地域ではなかったことが幸いした。雪解けや大雨で浸食されることが少なかった。 なにより空気が少し薄い。その分、気温が低くなる。単純計算で低地の東京より6℃も低い(軽井沢の標高1,000m×−0.6℃/100m=−6℃)気象条件が、東アジアのねっとりとした夏の大気にうんざりしていた宣教師たちの気を引いた。それからの発展物語はよく知られている。 避暑のついでに商いをしたらどうかと新しいビジネスの可能性に気がついた銀座の名店が次々に店を出して、今の旧軽井沢銀座の原型ができた。 というような話を札幌の大学で講義したことがあるが、学生はきょとんとしていた。北海道で生まれ育った若者には避暑地という言葉に連想がいかない、たどりつかない。東京のねっとりとした夏の空気をたっぷり吸わせてから軽井沢に引っぱり、その天国性を体験させるべきであったと今にして思う。授業のへたくそなことは脇において。 さて、軽井沢の歴史だけが浅間山山麓の歴史だけではないことに、多くの人は無頓着である。東京の人々が長いあいだ食している「高原キャベツ」は、浅間山の火山灰大地に群馬県嬬恋村の農民が長いあいだ闘うように働きかけてできた、奇跡の野菜である。そんな“闘うキャベツ”が相場の乱高下で苦労していた時期に同じように苦労していたのが東京の生活協同組合である。たくさんできれば豊作貧乏、少なければ価格が沸騰して手に入らない。そんな生産者と消費者がたがいの利益を考えて価格の維持と安定供給に関する協定ができた。乾いた軽井沢の大地に植林したように、人々は野菜の生産と消費に関するビジネスモデルを開発した。この国が平和だからなった話ではある。 避暑地の歴史もまた軽井沢にとどまるものではない。浅間山麓の北側は群馬県に属する。そこに北軽井沢という地名が登場するのはいつだろうか。 木下恵介監督の名作「カルメン故郷に帰る」が公開されたのは1951年(昭和26年)である。映画の冒頭、おもちゃのような草軽電車が東京でストリッパーをしているカルメンたち(高峰秀子ら)を北軽井沢に運んで来る。草津と軽井沢をつないでいたローカル線である。 草軽電気鉄道は橋やトンネルなど金のかかる工法を極力避けて、地形に忠実に上り下りする線路を敷いた。くねくね線路をのろのろ走る、今風にいえばエコロジーな路線となった。ともあれ、草軽電車がロケ隊の足にもなって映画の制作が進み、当時の北軽井沢を立派な総天然色で映像に残した。 しかし、そこに避暑地らしい風景は登場しない。避暑地の物語ではないからである。 これはまったくの憶測だが、かりに木下監督が避暑地と別荘を映像に取り込もうとしても簡単にはいかなかっただろう。北軽井沢の別荘地開発はすこぶる特異なかたち、大学人を中心とした知識人共同の「大学村」というかたちで進んだからである。 1928年(昭和3年)に「法政大学村住宅組合」が結成されて大学村の開発が始まり、現在に至っている。80年以上のときが流れている。 今も昔のまま、という。乱開発が当たり前のように思われるこの国のリゾート開発の歴史でこれは特筆されなければならないことに属する。 小説『火山のふもとで』は、北軽井沢の大学村にある建築家の別荘を中心に建築家たちの物語が進む。 大きなコンペをめぐる本格的な建築小説である。と同時に、頻繁に登場する旧軽井沢や浅間山南麓の追分らしき土地を往年の名車で縦横に駆け回る、ドライブ小説でもある。愛と別れもあるという点では恋愛小説。知的で快適で、愛も哀しみもあるとなれば、本邦には稀な本格的リゾート小説といって差し支えないだろう。 わたしが父の仕事に便乗して照月湖(しょうげつこ)の近くの開拓農家に宿を借りてもらい、北軽井沢の周辺をさまよったのは小学5年生の夏だったか。母方の祖母の隔世遺伝で“ですっぱぎ”(北関東の方言で「お出かけ好き」)に生まれたわたしは、近くに遠くに出かけることが大好きだった。 北軽井沢ではひとりで草軽電車に乗ったが1枚の写真も残っていない。 照月湖がボートの客でにぎわっていたこと、畔(ほとり)にあった「高原ホテル」の階段に踊り場があったこと、やさしげな支配人がいたことはなぜか覚えている。 それは父と母と妹がいた時代。人にとってかけがえのない第一の家族がいつかいなくなるなどとは思いもしなかったころの話である。 数年前の秋に草津から軽井沢まで旅をした。火山のふもとを妻とドライブし、車を止めて歩きながら少し考えた。 人が生きる時間と場所についてぼんやりと考えていた。 そこはわたしが居着いた北海道の向こうなのに、すこぶる近い土地であった。 北海道の秋の分厚い葉っぱの匂いの向こうには、わたしの好きな北軽井沢や照月湖がいつもひっそりとあった。 しかし、こうして思い出の地に立つと、高原ホテルはどのあたりにあったのか。おぼろな記憶に残る池の畔は思いのほか小さな土地だった。 跡形すら消した時間の太い流れにわたしは言葉を喪っていた。照月湖の美しいにぎわいは、遠くなる家族の思い出とともに昭和のときの彼方に飛び去り、わずかな手がかりを見ることも聞くこともなかった。
by waimo-dada
| 2013-07-28 22:39
| 山と旅
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