N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

「そのうち」はあしたに消える

 後悔することの多い人生でなんども同じ後悔をしたことがある。「ま、そのうちに」と言って、歩きながら物事を鞄のなかに放り込む。「そのうちに」という言葉は生まれつき怠惰な人間にはとても便利で、したいこともしたくないこともとりあえず先送りするときに使う。今日も明日も忙しいし、お金もないから「そのうちに」。あいさつ代わりにも使える、とても便利な日本語です。
 「一度、どうですか」「はい、そのうちに」
 なにもかもを軽くやりすごしてその日を暮らす。
 ある日とつぜん、後悔が黒い天使となって我が身を襲う。
 人生はそれをくりかえす。

 むかし北海道拓殖銀行が元気だったころ、拓銀グループの調査研究機関だった勤務先の東京事務所が拓銀築地支店のなかにあった。築地支店へは歌舞伎座の前を通っていく。ヒマができたらそのうち歌舞伎座に寄ってみようと、いつものように仕事でいっぱいの鞄のなかに「そのうち」を放り込んでいた。そうして、たくさんのそのうちが鞄の底に折り重なって沈んで化石になろうとするとき、拓銀がつぶれた。勤務先の親会社の銀行が消えてなくなった。1997年11月17日のことである。そこで少し目が覚めた。そうか、人や店だけでなく勤める会社がなくなるときがあるのだ。そのうちにと思ったらまず立ち止まろう。したいことに忠実になろう。気になったことは、まず始めてみよう。お出かけ好きな血を受け継いだわたしだ。そのうちにではなく、いま出かけてみよう。

 隅田川の平成中村座を訪れたのにはそんなこともあった。
 旅に出ようと、とつぜん家人に宣言して旅行計画を始めるのはいつものこと。どこでもいいから地図帳をパッと拡げてごらん。そこに行こう。それが伊豆箱根だった。よし、箱根の湯に遊んで帰りは東京で芝居見物だ。そんな軽いノリで当時気になっていた平成中村座を旅に組み入れた。2001年の秋の終わりである。
 大正解だった。演目は「義経千本桜」、中村勘九郎(当時)初役の知盛だった。
 しかし、平成中村座そのものの旅がとつぜん閉じる。この先もずっといると信じて疑わなかった当主が消えていなくなった。2012年の冬の初め、中村勘三郎はこつ然と世を去る。享年57。よもやこの若さで骨となって小屋のあった隅田公園に帰り、祭り囃子で迎えられるとは、だれひとり思わなかった。
 勘三郎さんが亡くなる前の年、わたしと家族は新橋演舞場の三月大歌舞伎で六代目中村歌衛右門の追善狂言「枷羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」を観ていた。そのとき栄御前を演じていた中村芝翫(しかん)さんが同じ年の10月に亡くなる。勘三郎さんの岳父である。

 勘三郎さんが新しい歌舞伎座の舞台に立つことをどれほど望んでいたか。みんなが待っていたことか。もうかなわない。
 お葬式の帰りにテレビ局のマイクに問われた内田裕也はこう返した。
 「おれよりロックンローラーだった」
 名言だ。いつも新鮮で、よく働く扇の要に中村勘三郎がいた。
 勘三郎さんの友、串田和美さんは今なにを思っているのだろう。わたしはそれを知りたい。

 2013年4月の歌舞伎座の幕開きでは坂田藤十郎がお祝いの「鶴寿千歳」を踊り、5月には枷羅先代萩の政岡を演じるという。わたしは2008年3月に藤十郎さんが喜寿の記念で踊った「娘道成寺」に圧倒されたことがある。軽々とつややかに舞う。歌舞伎座の高い3階席から観ていると、まるで舞台に大きな花が一輪咲いて舞っているようだった。今もとてもお元気だが、新しい歌舞伎座でもう一度娘道成寺の舞いを観たい。
 その日暮らしのそのうちに、わたしがなにかの拍子でいなくなる前に。
# by waimo-dada | 2013-01-31 22:54 | アートな日々

2012年北海道演劇宣伝美術大賞(らてるね賞)決まる

 第1回の北海道演劇宣伝美術大賞の選考会を12月22日(土)午後、札幌市内のシアターZOOで開催した。2012年に道内で制作発表された演劇のチラシ(フライヤー)のうち収集することができた148点を対象に選考した結果、大賞1作品と優秀賞2作品を次のとおり決定した(敬称略)。
◎大賞:教文13丁目笑劇場「キネマの怪人」宣伝美術:長尾修治(札幌大同印刷株式会社)(3月3・4日上演、札幌市教育文化会館)
◎優秀賞:劇団亜魂(アジアンハーツ)「それじゃバイバイ」宣伝美術:温水沙知(ぬくみさち) (2月17〜19日上演、レッドベリースタジオ)
◎優秀賞:演劇ユニット イレブン☆ナイン「サクラダファミリー」宣伝美術:小島達子、宣伝美術撮影:奥山奈々、星野麻美 (11月7〜9日上演、札幌市教育文化会館)
 
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〈北海道演劇宣伝美術大賞とは〉
 演劇を下支えする宣伝美術の担い手を励まし、小さな灯り(ラテルネ、ランタン)で照らすささやかな個人賞。大賞1作品(賞金3万円)、優秀賞2作品(各1万円)。主宰伏島信治(伏島プランニングオフィス代表、平成23/24年度札幌文化芸術円卓会議委員長、元札幌国際大学教授)
 選考は、①演目の魅力を伝えているか、②美術・デザイン・構成がすぐれているか、③その他見る者に訴える力(独創性等)を有するか、という点から総合的に判断する。
 今回の選考に当たった委員(敬称略、計6名)
 磯田憲一(北海道文化財団理事長)/下村憲一(建築家)/根子俊彦 (札幌国際プラザ総務企画部長)/横山憲治(PMFを応援する会役員)/ 和田由美(亜璃西社代表取締役)/伏島信治(北海道演劇財団評議員) 

〈講評〉            
 大賞に選ばれた「キネマの怪人」は絵と活字が優れ、バランスも確かで演目をよく伝えている。裏面に企業CMを取り入れたのは工夫だが、演目の情報が詰め込みになって解説文字も小さく、老人の目にはつらくなった。
 優秀賞の「それじゃバイバイ」は色の使い方がうまく、ソフトな絵と文字のバランスもいい。裏面のコピーは冗漫でシンプルな構成の良さがやや薄れた。
 「サクラダファミリー」はうまい。おもしろい。手に取りたくなる。が、その分、最小限必要な上演情報が表面から消えた。あんばいがむずかしい。
 審査全体を通じて、演劇にかぎらず広報チラシはとかく宣伝物として消費されることが多いのに、思いと工夫をこめて制作する人々がいることを改めて感じた。じつに多様な表現があることもわかった。しかし、思いがチラシの紙内にこもり演目を十分に伝えていないケースが少なくない。未知の観客に届ける前に、仲間内の批評にとどまらない、より広い批評・点検を望みます。
 お忙しい年末に手弁当で参加された委員諸氏に厚く感謝します。(伏島)

〈大賞・優秀賞以外の入選作品(6作品)〉
・サンライズホール第294回自主企画事業「境目に降る雪」宣伝美術:いち
 のへ宏彰(3/20、あさひサンライズホール)
・演劇ユニット イレブン☆ナイン「天国への会談」宣伝美術:小島達子、宣
 伝美術撮影:奥山奈々(6/9・10、札幌市教育文化会館)
・日本劇団協議会新進演劇人育成公演「輪舞(ロンド)」宣伝美術:若林瑞
 沙(6/27〜7/2、シアターZOO)
・「札幌演劇シーズン2012-夏」宣伝美術:若林瑞沙(7/21〜8/20、コンカリ
 ーニョ、シアターZOO)
・BLOCH「イゼン、私はアンドロイドでした」フライヤー:山田マサル(9/13〜 
 15、BLOCH)
・弦巻楽団「果実」チラシデザイン:藤原柚(9/26〜28、サンピアザ劇場)

〈道外制作チラシ推薦作品 (3作品)〉
・弘前劇場「湖の秋」宣伝美術:木村正幸(4/28〜30、シアターZOO)
・青年団「月の岬」宣伝美術:太田裕子、チラシイラスト:マタキサキコ(6/8
〜30、座・高円寺ほか。道内公演なし)
・ナイスコンプレックス「ゲズントハウス〜お元気で〜」宣伝美術:川口岳
 仁、宣伝撮影:栗栖誠紀(11/1〜4、シアターZOO)

〈連絡先〉
〒064-0942 札幌市中央区伏見1丁目1−1 伏見タウンハウス F204
伏島プランニングオフィス 伏島信治(ふせじまのぶはる)
TEL/FAX (011)551-4602 MAIL:waimo-dada@nifty.com

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# by waimo-dada | 2013-01-07 23:25 | 北海道演劇宣伝美術大賞

流れよ、北へ

 ふと気がつくと、2012年は津軽海峡の南に一度も行かなかった。1968年に北海道に渡ってきたから44年になるが、道外に仕事も私的な用事もなく、北海道のなかだけですごした。では北海道を忙しく旅をしたかといえばそんなことはない。娘といっしょに始めた不景気なカフェをなんとかしなければと始末に追われたが、これも現役バリバリの時代とくらべれば忙しくはない。心の身動きが取れないというか、だれからも制約を受けていないのにあまり自由がきかない。好き勝手にできない。なんだか神妙にしていた。自由自在に「ですっぱぎ」の本領を発揮しない年となった。
 ですっぱぎというのは群馬や茨城など北関東の方言で外出好きという意味。わたしは母方の祖母から隔世遺伝でこの個人的資質を引き継ぎ、大いに発展させてきた。いうまでもなく北海道に渡ってきたのにもこの特質が働いている。なので、ですっぱぎが外出や遠出をやめて陽の当たる縁側で猫といっしょにうたた寝をしている図は似合わない。それが、ほとんど旅に出なかった。日高や大雪の山は別にして旅行らしいものといえば秋に天塩川のほとりを巡ったくらいだった。

 音威子府(オトイネップ)の先、筬島(オサシマ)という砂澤ビッキの美術館のある土地を訪ねた。不景気なカフェを店仕舞いでき、ですっぱぎが戻ってきた。
 音威子府は遠い。長く流れる天塩川のわきを右に左に曲がりながら北に流れていく。ほおっておけば川にたぐられて北を向き、川のように流れていく旅になる。そこは札幌などで考える以上に深いアイヌモシリ、人間の大地である。
 考えた。あちこちに寄り道してから天塩川の水系に入ることにしよう。旅全体を右に左にうろつくようにしてしまえば遠いことも長いこともそれほど気になるまい、と。

 寄り道のはじめは上富良野町千望峠のフットパス。小高い丘の道から新雪の十勝岳連峰を見て歩く。考えただけでも気持ちのよい旅の始まりになるはずだった。が、旅もまた人生の一部分にすぎないと教えられるのが常だ。わたしの大好きな十勝岳連峰はその裾野を見せるだけで、どんよりと曇った空の下、収穫作業を終えようとしているビート畑の脇をしみじみと歩くことになった。 
 記憶に残るのは上富良野の町を見おろす松の木の下。馬頭観音の塚があった。開拓のしるしである。
 次に来るとしたら山に雪が残るころだろうか。
 札幌の藻岩山麓自宅発9:30、千望峠発12:15〜着14:45。全9.3km。(参考資料)「フットパスベストコース北海道Ⅰ」(ダイヤモンド社、2010)

 上富良野から美瑛を経て、東川町ユコマンベツの定宿ロッジ・ヌタプカウシペ。別荘代わりにしている常連さんが多い小さな山の宿である。簡素な温泉・食事の良さ、オーナー夫妻との楽しい会話の替えがたさは、泊まってみないとわからない。先を急がない、旅する人たちの宿である。
 その晩はオーナー夫妻と近しい店と人の話になった。軽井沢のカフェ「離山房(りざんぼう)」、札幌のおでん「一平(いっぺい)」、そして、ここヌタプにも寄った砂澤ビッキの話。わたしは明日ビッキを訪ねる。そんな旅の先にジョン・レノンが好んだ離山房が、たぶんある。
 わたしが愛した眼鏡のフレームのひとつがジョン・レノン・モデル。同じ時代を生きているから昨日知ったあなたとまだ知らないあなたを訪ねる。急いでなんかいないのに道の石どもにカツンとつまづきながら。

 それでも年をとるのは悪くないと思えるときがある。記憶の奥に散らばっていた物事が軽く引きつけあって細いロープのようになる。意味がつながる。錯覚にすぎないのかもしれないが、生きてきたことがむだではなかったらしいね、と安心貯蓄銀行から通知があった気分。
 旅に出る前、わたしは白老の町の道の奥に来ていた。林と農地が入り混じる、なんとも名づけようのない不安な道の奥に、廃校になったところを美術家たちが利用して、年に1回、「飛生(とびう)芸術祭」というアートイベントをしていた。目が痛くなるような小さな字でわからないことがびっしり表現してあるリーフレットに、ひとつだけはっきりとわかることが書いてあった。マレウレウとOKIがやってくる。これは行かなくちゃ。
 トンコリを抱いた世界の渡り鳥OKIは砂澤ビッキの息子でもある。音楽と立ち姿がまことにカッコいい。わたしのなかではメジャーな存在である。もっと売れていい。
 時間は前後するが、探していた織田(おりた)ステノさんのカムイユカラ(*)のテープを札幌学院大学の売店で入手できた。その足で新さっぽろギャラリーで開催していた東川町特別作家賞受賞者、宇井眞紀子さんの写真展「アイヌ、風の肖像」を観ることもできた。赤信号で止まっているばかりのような人生にもいい風が吹くことがある。 *「ユカラ」の「ラ」は小さく発音する。

 織田ステノさんのカムイユカラは泣ける。クト(**)ンク(**)トン、クトンクトン(同)というリズムにふれると、自然と涙で目があったかくなる。そのリズムはこの人間の大地に普通にあったにちがいない。そう思うと悔しい。あったかい涙にせつない涙がまじる。もうひとりの人間(和人たち)のしてきたことがほんとうに悔しい。
 わたしがステノさんのユカラを大学の集会室で聴いたときは風邪を引いているが気分がいいのでやります、ということだったが、いまでは奇跡のように思える。1988年9月10日の小さなライブだった。
 織田ステノさんは1994年に亡くなった。
 わたしは織田ステノさん、好きだった。母方の祖母に似ていた。
   **小さい「ウ」の発音が入る。

 旅は鉄道のレールのようにはつながらないが、なにかの折に風と水でつながる。そして低い分水嶺の塩狩峠を越えて上川地方の北部に入る。
 天塩川は支流を集めて北に流れる。流域は北に傾いている。北を向いている。南に流れる石狩川とのちがいはここに発する。
 人は語らないが北海道の心性は天塩川の流域にあるのではないか。ふとそう思うことがある。より北海道らしいといわれる道東のような劇的要素をもたないのに。スター選手を持たない地味なチームゆえに見逃される、いいようのない特性、土地の底からひっそりと立ちのぼる気配のようなものにわたしはひかれる。

 たくぎん総合研究所というシンクタンクに在籍したころに「上川北部地域」の広域観光計画をつくる仕事に関係した。北海道上川支庁と市町村の担当者に同行して地域を回り、助言指導するという仕事である。この仕事はふたつの意味で並の請負仕事ではなかった。
 まず、丸投げを拒否して「みんなでつくりましょう」と言いつのった。かわいくない業者である。
 次に、これはかなり本質をついたつもりだが、並の観光計画とすることを避けようとした。それにはいささか考えがあった。北海道にひとつくらい観光地にならない地域があっていいのでは。いや、そんな地域があるべきだ、とわたしは本気に考えた。脱観光! 並の観光地と頭を並べることがむずかしいのであれば、いっそのこと観光地にならないことを選択したらどうか。そこに並の観光地とは次元のちがった地域発信の可能性がありはしないか。
 (続く)

 
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# by waimo-dada | 2012-12-31 20:40 | 山と旅

林間学校に行けますか?(2)

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 わたしは今なぜここにいるのか、長い時間がたってわかることがある。
 なぜ北海道に来た・・・。入学した大学で林学科に進んだのは。地方公務員から銀行系シンクタンクの研究員になり、北海道教育大学の依頼を受けて喜んで「余暇論」を担当したのは。サラリーマンをやめて札幌国際大学観光学部の教員になり、それもやめて上司も部下もいない自営業を選んだのは、なぜか。
 すべてのもとに「林間学校」があったように思う。
 子どものときに林間学校の存在を知ったわたしは、いつか林間学校に行ける身分になってやろうと思うようになっていた。大人になれば林間学校なんて関係なくなるのに。
 林間学校がいつしか豊かな暮らしの象徴に転じていた。
 赤城山の山麓の町を抜け出して遠くに行きたい。きれいな雪が降り積もる土地へ。
 そんな思いが重なったとき、遠くにぼんやり北海道が見えた。あのサロマ湖という茫漠とした湖を抱えて、無造作にオホーツクの海に砂地の海岸線をのばす北海道。ほかはなにも知らない。地図を見ることが大好きだった青少年が北海道に片思いした。そしてやってきた。
 
 父の軍人恩給が学資になった。ありがとう、父さん。
 農家の末息子で職業軍人を選んだ父は息子が旧帝国大学に進学したことを喜んでくれた。だから北海道の林間学校に行きますなんて言えない。ほら、山の道具も本も捨てたでしょ。しっかり学んでくるからね。

 親にウソは言えるのに、いいやそんなふうだから、生きるのがへたで20歳になっていた。
 両毛線の小山で東北線の急行八甲田に乗り継いで青森。青森の駅でなぜ人々が連絡船に向かって走り出すのかわからない。大きな荷物を手に無言で。あれは、戦後を生きるというのはこういうことだったのよと映画のワンシーンのように背中の群れがわたしに教えてくれた、と今になって思う。

 チッキ(*)ひとつで北海道に渡ってきたら、本当に林間学校があった。北海道大学体育会山岳部。
*駅で受け取ると安く済んだ国鉄の手荷物輸送サービス。わたしは布団と電球スタンドだけの包みを学生寮のリヤカーを借りて受け取りに行った。
 体育会のクラブなのにアカデミック・アルパイン・クラブ・(オブ)ホッカイドウ(AACH)と名乗っていて伝統があるらしい。ルーム(部室)は古い木造の文化団体連合会館の奥にあった。建物はクラーク会館と中央ローンと図書館と農学部の間にある。クラ館には食堂と喫茶店がある。教室にはいつでも行くことができるから、行かないでもいい。
 
 石炭ストーブを囲んで先輩たちの話を聞いているだけでも楽しい。まわりは大きなエルムの木々と芝生。これ以上ない遊びの基地、いや林間学校。となりの部室は演劇研究会。その北大演研と糸が紡がれて数十年後には北海道演劇財団や演研出身の劇作家で俳優の斎藤歩さんのサポーターになるのだが、当時はいつもだれかが駆けて叫んでいるという体育会系クラブ。アングラ劇が全盛の時代だった。

 山岳部に入るとすぐに合宿の準備になった。合宿は年に2回、十勝岳連峰で5月連休と冬山山行の入山前にある。
 大学の山岳部やワンダーフォーゲル部では合宿が部活動の中心にあるのが普通だ。が、北大山岳部はちがっていた。合宿する時間なんてもったいないから、廃止して自由な個人山行に当てるべきだ。いいや、合宿はルームに培われた技術と文化を伝承する機会であり、互いを知ることは互いの山行計画を検討するためにも欠かせない。合宿は絶対に必要だ。そんな議論がとびかうクラブだった。

 1960年代末当時、16人にひとりの確率で遭難死亡事故が起きているといわれた。実際、ルームの壁の上部は山で死んだ先輩たちの若い遺影で囲まれていた。
 どんな山登りを目指すか、ルームが経験していないそのルートで予想されることはなにか、問題にどう対処する、そもそもメンバーを安全に街に還す力量がお前にあるのか。議論することはいくらでもあった。
 オールラウンド、プリミティブ&コンプリート。沢登りも岩登りも冬山もやる。なるべく文明の利器に頼らないで。できれば完全に、今風に言うならノーミスで。そんな理想が語られる一方、岩登りだけやるのもよし、小屋に通うだけもよし、と互いの自由を尊重する気風をみんなが大切にしていた。当時、本州の一部の大学山岳部やワンダーフォーゲル部で問題になっていたシゴキはなかった。当然、上級生に命じられて重い荷を担ぐこともなかった。そんなかっこ悪くてクラブ活動の本筋からはずれたことは問題外、という青年たちのクラブだった。

 札幌近郊の森に北大山岳部が管理する山小屋がふたつある。そのひとつが現存する日本最古の洋式の山小屋であるヘルベチアヒュッテで、定山渓の奥山の白樺林のなかに立つ。札幌の藤女子大学や宇都宮のカトリック教会に名を残す建築家マックス・ヒンデルが故郷のスイスを思って近しい仲間とつくった、堅固で愛らしい山小屋である。もうひとつが北海道の雪を愛された秩父宮のご下賜金で建てられた空沼(そらぬま)小屋で、空沼岳中腹の池のほとりに老いたトドマツのようにひっそりと立つ。
 烈風が吹きわたる雪山の稜線ではときおり死のにおいが走る。そんな山の中腹や麓にトドマツやエゾマツが守る針広混交林や白樺の純林がひろがる。若者の身体をやわらかにつつむ山小屋がある。

 どこに行くか、いかに生きるか、すべて自由。自由という幸せできつい選択のなかを若者は生きていた。戦争に行かないでいい時代であったからひとは自由に生き、退き、孤独を受け入れ、傷ついた。ひっそりと死ぬ者もいた。幸福で残酷な青春。
 自由な人間であることと組織の一員であることの間になにがあったか。ルームを離れていった近しい友人たちの生と死に思うことは少なくない。

 入部したときにはただ楽しくてなにも感じなかったが、わたしはこれ以上ない林間学校に入ることができた。
 年に1回、秋の終わりに小樽の銭函峠をこえてヘルベチアヒュッテに行く。ドロノキの大木の下で、みんなで焚き火を囲んでぼうっとしているだけで楽しい。2012年の秋は歩みが遅く、10月も末になって日差しの柔らかい山道をほこほこと歩くことができた。

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# by waimo-dada | 2012-11-07 03:27 | ライフスタイル

林間学校に行けますか(1)

 もうじき「高齢者」です。
 わたしの小学校の同級生の半分は、2012年9月末に公式の高齢者となりました。公式に、です。みな、日本国からもう逃げられません。働かないでも食べていけるから。巧妙なやり方で捨てられる可能性はこの先ゼロではないけれど。
 さて。あんなにかわいかった群馬県大胡(おおご)町(現前橋市)大字大胡の木村のタイコちゃんも◯◯◯のイネコちゃんも、生きていればみんなきれいなおばあさん。世の中は本当にそんなことになっているのだろうか。信じられない。

 あの時代、1950年代の後半。「お前たちは揺り籠から墓場まで競争だ」といった教師がいたそうだが、幸いなことにわたしが会った教師はみなのんびりとしていて実直で、そんな理屈を口にするほどバカではなかった。まして田舎生まれのわたしは揺り籠なんて高級品を見たこともないから、リアリティのない言葉を吐く赤シャツ先生などがいたものなら、朝早い教壇に、清楚な青ガエルの一匹も竹籠にいれて進呈していたろう。
 日本国が戦争に負けて10年。1955年秋、今日から完全給食ですと華々しくうたわれて登場した学校給食のスターは、戦勝国アメリカからとどいた豚の餌用スキムミルク。厚紙のドラム缶で運ばれてきた。元占領軍のアメリカ兵から見ればわたしたちは豚の子同然。そんな身分なのにわたしたちはいじめも競争もほぼ関係なく育った。飢えたことはなく、心さみしくもなかった。いつも四季の祭りが身近にあった。親と世間に抱かれて育ててもらった幸せな少年時代。小さな田舎の学校なのに子どもはあふれるようにいて、教師も子どももその日を働き、遊ぶのに精一杯だった。

 そこはオキナワでもヒロシマでもナガサキでもなく、3月10日の大空襲の記憶をとどめるトウキョウでもなかった。戦争のことはほとんど何も知らない。聞かされてもいない。母方の伯母の夫が南方のガダルカナル島で亡くなったとわたしが知るのは先のことだ。子どもたちは古い城下町の名を残す町の路地から小川や田んぼで遊ぶのに忙しく、いじめるヒマも塾に行くヒマもない。そろばん塾はあっても学習塾なんてない。いじめも塾もないうえに戦争に行かないですむのだから、明治維新のあとで日本国に生まれた男子にとって最良の時代、地域のひとつだったといえるかもしれない。

 というふうに振り返ると、なんだか、いい時代、いい田舎だったね。
 そして、目に見えない水平線的な競争心がわたしたちの境遇のなかに、もっというなら時代のなかにあった。みんなでがんばって上に行こう。豊かさというものを手にしようと。フツーにひとしく貧乏だったので、親と子の共同戦線があっさり成立していたのかもしれない。
 問題はそれからだった。子どもたちは期待を口にしない親の期待を背中で感じていた。どの子も、いい学校に進むか、早く独り立ちしなければならないと考えていた。中学を出たら就職するという選択肢がなんの疑問もなくあった。実際、就職する子はいたし、自衛隊の学校に行く子もいた。自衛隊の学校は学費がいらないどころか給料をもらえるので入るのがむずかしいという話だった。

 わたしは新設されてまもない国立の高等工業専門学校(高専)に進んだ。普通高校や大学に行かないで独り立ちできるすばらしい人生コースだと親と周囲は歓迎したが、受験勉強の向こうには海原のような将来が開けていると素朴に考えていたわたしにはいくらか酷な結末、青春のはじまりとなった。相談できる人はどこにもいない。むずかしい学校に進学できたということだけがひとりの少年の自負を支えた。人間ってひとりで生きていくのだな、と初めて実感した。

 学校にいた時代をふりかえれば、ざっとこんなあんばい。
 ここでやっと主題が登場する。いいなあ、林間学校。
 公式に高齢者になるというありがたい年齢になって、いや、そうなったからますます昔のあの日に行くことができたならと思いが強くなるのは、なぜだろう。実現できなかったから、疑似体験でいいからあの日に戻って林間学校の旅に出たいと思うからか。
 日本全国がひとしく貧乏ではないということをうすうす知っていた自分がいた。それを教えてくれたのは林間学校自身であったが、遠い都会から子ども向けの月刊誌を経由して伝わってくる「リンカンガッコウ」というすてきな、つまり大学生になってから知る言葉でいえばプチブル(プチ・ブルジョア=小市民)の匂いのする音を、わたしは好きだった。
  そのとき、わたしは子どもなりにひとりで生きていくと決めたらしい。いつかは郷里を離れ、いい匂いのする方向に歩こうと。
 
# by waimo-dada | 2012-10-11 02:32 | ライフスタイル