N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

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いつもラジオから風が吹いていた

 深夜、そっとラジオの音に耳を傾ける。
 むかし、ラジオが家庭の真ん中にあったときの名残である。ひとりきりの書斎にいても大きな音にはしたくない。
 真空管時代の大きな木箱のラジオは家族全員の情報プラットホームであった。日々のニュースから落語、講談、演歌、アメリカンソング、クラシック、ドラマまで、家庭の耳を満たす黄金の箱であった。
 それがトランジスターラジオになった。戦後の文明的爆発はこのトランジスターラジオの出現によるとわたしはいまもそう信じている。ラジオがいっぺんに小型になり、個人のものとなった。初めて自分のラジオを所有したときの興奮を微熱のようにいまも覚えている。世界がいっぺんにそこに来た。ソニーが世界で初めて制作したトランジスターラジオは、さあこれから本格的に生きていくからねという戦後ニッポンの熱い想いと接吻した。性能上は大した変化はないのに、幸せなラジオと人の関係が生まれた。

 ソフト面の変化も大きかった。「S盤アワー」という人気番組がいろいろな音楽の流行を教えてくれた。といっても、そのほとんどはアメリカ音楽だった。青少年の耳を通して体に入ってくる文化はほとんどアメリカ産。ちょうど、口を通して入ってくる学校給食の脱脂粉ミルクがアメリカ産の豚の餌だったように。
 選択の余地はなかった。漢学の素養もなければ日本古来の文芸諸般のたしなみもない戦後の国産青少年の余暇にささりこんだほぼ99%アメリカ産のポピュラーミュージックが、わたしたちのラジオ的身体を規定した。それはしかし楽しいことだった。伝統的な文化規範から遠く孤独な無個性を生きていた青少年たちにとって、アメリカ音楽はわかりやすく、乗っていける現代文明の軽車両、自転車のようなものだった。

 ラジオドラマをよく聴いた。「笛吹童子」(NHK、1953.1〜12)と「赤胴鈴之助」(ラジオ東京、1957.1〜1959.2)が人気だった。婦女子に大人気だったのは「君の名は」(NHK、1952.4〜1954.4)。放送の時間帯は銭湯の女風呂ががら空きになったという伝説が生まれた。
 テレビ放送が始まったのが1953年2月だから、わたしたちがラジオの前に集まっていた時代と重なる。当時、テレビは、電球や電気アイロンを売っている電器屋さんの店先で見るものだった。一般の家庭がテレビの時代を迎えるにはお金と時間が必要だった。
 それからしばらくして長いテレビの時代に突入したが、テレビはいま首長竜のように肥大化して衰退した。見るに値する番組はあるのだがインターネットを含む巨大な情報の海のなかで希釈されてしまい、存在が薄い。ではラジオはどうかというと、少数派を続けるなかで生きていく体と道を見つけ、絶滅危惧種にならなかった。なにより大喰らいでないのがよかった。
 聴く側も大喰らいではなかった。家族の人数は多いが所帯が小さい。いつも始末にしていた。

 仕事をしながら勉強をしながら、うたた寝をしながらラジオを聞く。いいなと思う音楽があったらすぐにラジオ局のホームページから楽曲を確かめてネットで調べる。そのままネットで簡単に購入することもできる。
 便利な時代になったからラジオが生きているという面もある。メールのメーリングリストやフェイスブックで、知人がラジオに出演するという情報が流される。聴き逃すまい、と録音の準備を始める・・・。
 で、ここからはわたしの抱える個人的問題。
 わたしが所有するラジオではテレビのように簡単に録音予約をすることができない。放送される日の時間と局しか指定できない。それがまた大変にむずかしい。操作が何手順もあって、10秒以内にキーを操作して選択しないと前に進まない。わが国の優秀な技術者がなぜ年寄りいじめの機械とプログラムを開発したのか、わたしの疑問は晴れぬままである。音はいいので買い替えるという選択肢はない。すぐれた音響メーカーが手がけた真面目でへたくそなCD・MDラジオ。まもなく骨董品として値がつくはずだ。

 たまにラジオドラマを聴く。傑作に出会えたときの喜びは大きい。NHKのFMシアターで2009年12月に放送された倉本聰さんの「マロース」のような傑作にまた会いたいなあ。
 人生は日々凸凹。録音できたり、できなかったり・・・。
 ラジオな日々がまた爽やかな夏を迎えた。
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by waimo-dada | 2013-06-24 14:57 | ラジオな日々

札幌の文化芸術基本計画をただいま作成中

 昨日6月18日は朝から書類をひろげて「札幌市文化芸術基本計画起草小委員会」に灰色の脳細胞を総動員した。市民が大きく関わる文化自治に向けて将来の構想をあれこれ描くのは、世のためというのがもちろんあるけれど、この年寄りの脳細胞を活性化させる効果もありそう。が、「わたしたちの仕事に口出ししてほしくない」という役所の反応が予想された。

 文化行政のあり方を根本的に見直す方向に関して、5年後に空間を与えられる全国初のアーツセンターに4つもの市民参画型委員会(円卓会議運営、事業支援、事業評価・政策検討、広報・産業化)を機能させようというわたしの構想は、やはり抵抗を受けた。これまでの基本計画を進化させるための議論の種だがすこし刺激的だったか。しかし、具体的な場面を想定して議論しないと真に必要な基本が見えてこない。

 財政難でますます大変だが自分たちの仕事は聖域にしたい、守りたい。そうでなくても忙しいので負担の大きい仕事はふやしたくない。その気持ち、よくわかる。
 しかし、文化行政に対する時代の要請はふえている。プライドと責任感だけでは公けの仕事を担いきれない時代になっている。おおむね3年で職場職務が変わる職員だけでは専門的な文化行政は荷が重い。納税者からの負託にきちんと応えられない。
 ならば、もっと良い状況をめざして職務を大幅に「外部化」しようというのがフセジマ的単純思考法であり、提案の要である。市民、アーティスト、研究者、芸術文化団体職員など、民間に経験豊かで有用な人材が大勢いる。札幌の強みを生かさない手はない。

 時代の要請とは何か。ざっと整理しておこう。
 わたしが札幌市の最初の文化政策テキスト「札幌市芸術文化基本構想(アンビシャス札幌・21)」(1997.5)の作成をお手伝いした2年間に見知ったことは少なくない。市民、アーティストがおたがいを知らないでいること、文化イベントや助成金のことなど情報に関するニーズがとても大きいことがわかった。そこで、この基本構想では芸術文化に関する交流、情報、振興の拠点として「アートプラザの整備」が取り組むプロジェクトの例として取りあげられた。札幌において小さいながらも初めてアーツセンターの夢が語られた瞬間である。
 市民、アーティスト、自治体がたがいの活動を知り合う。そのような場を文化自治のスタート地点として、いわばプラットホームとして保障することは古くて新しい時代の要請である。

 自治体職員が文化行政のすべてを担えないことは、時代の大きな波を受けてのことでもある。人口の大幅な減少を迎える将来、都市の生き残りと産業の維持発展は若い人々の積極的な関与がなければ望めなくなる。次世代を担う若者・子どもたちを育て、まちをつくるためには、すべての関係者が連携して行動(共創、共育、協働)するほかはない。
 そうした行動、事業を支援する枠組みをオープンにし、利用しやすいように改善することも時代の要請だ。わたしたちのお金と都市の経営資源がどう使われているかを明らかにするために事業の成果・問題・課題をオープンな場で検証し、政策に反映させるという循環的な作業も欠かせない。地味な仕事だけど時代を進化させるのはわたしたち自身だから。

 そうして得た共同の経験と知見(共同知)を創作・学校・町内等の現場に還元する。感動や共感したことのアーカイブ付きで。
 また、市の内外に宣伝して文化芸術の産業化をうながす。文化芸術を基礎にまちづくりと産業の拡大再生産を図ることができるようになれば、まさに都市の自律的発展がかなうことになる。
 しかし、そこで安心しては入られない。いつもプラットホームの上に立ち戻ってたがいを謙虚に知り合う必要がある。

 さて、市民参画とはなんだろう。まず卑近なところから考えてみよう。委員会開催の時間費用は、言葉の正しい意味でのボランティア(自発的)な参画が前提にあるからびっくりするくらい短く、安くすむ。お茶代さえもかからない(わたしはマイボトルなんて言葉がないずっと以前から、札幌の水道水がベースのおいしいコーヒー・お茶持参で会議に参加している。長めの散歩はもちろん、芝居や映画を見るときにもね)。
 なによりも、議論と活動の場が広がり、手応え、やりがいが見えれば市民は元気になる。これが大きい。暮らしが楽しくなるのは消費と鑑賞だけではない。みずから供給する、創る喜びをみんなでもちたい。札幌市中央区北1西1にできる大きな文化施設の一角にそんなにぎやかな場をつくりたい(注.アーツセンターの建設取得費用は約10億円という。再開発事業のコストもかかっているからだろうが小さくない公共投資である)。おもしろい場所ができれば人が集まってくる。内から、外から、海の向こうから。

 まっすぐで誠実な抵抗とそれに対する反論から、章節のわかりやすくて論理的な組み直しまで、約2時間半、いい議論ができたと思う。いまは細かなことを決めなくていい。時代を転換する精神、肚構えが基本計画に明記されればそれでいい。やさしくない話だが。
 まっとうで役に立つ、いい基本計画をつくりたい。その点はみなに共通している。
 この会合の議事録も後日、ネット上に公開される。
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by waimo-dada | 2013-06-19 22:38 | 仕事の周辺

金曜日のとなり旅

 いっせいに戻ってきた光が雨にぬれたミズナラの葉裏を貫いています。

 昨日は雨が予想されるので赤岩ハイキングと祝津からの遊覧船を省いて昼から小樽へ。
 お目当ての「滝口修造のシュルリアリスム展」は全国の公立美術館を旅する巡回展ですが、ていねいな構成がうれしいです。きれいでダンディーな絵画作品もあります。そう、瀧口さんはとてもダンディーな人でした。実験工房でご一緒された武満徹さんもそうでした。
 ほとんど観客のいない静かな館内でほっこり。旧小樽貯金局のモダンな建築意匠を生かしたここは何度来てもいいところです。喫茶室やカフェなど、きちんとゆるく遊んでいるところも大賛成!
 「滝口修造のシュルリアリスム展」は小樽美術館・文学館で6月30日まで。
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 都通りの「あまとう」で一休みして、小樽駅前からわかりにくいバス便を利用して小樽築港のグランドパーク小樽へ。
 伊藤整文学賞の集まりは今年と来年でおしまい。背景は会員の高齢化と資金難。わたしも高齢者です。すみません。
 例年は受賞者の話を聴いてから読むことが多いのですが、今年は辻原登さんの受賞作『冬の旅』をもう読んでいます。なので余裕十分に選考委員やご本人のお話を聞くことができるはずでした。
 残念なことに次の予定が控えています。辻原さんのお話が『罪と罰』を引いて「しかし実際の人生は特別の理由がなくても転がっていく」と『冬の旅』の本筋に入ったところまで確かめてJRで琴似へ。
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 琴似駅から歩いて5分ほどのレッドベリースタジオで佐々木譲さんのこの日のために書いたという新作短編の朗読会。辻原さんもそうだけど佐々木さんもまた手練れのストーリーテラー。その作家が手持ちの写真も駆使して話者を演じます。
 わたしはこの会に同席した演劇関係者に、劇場で新鮮な演出の朗読会をやれば劇場の新しいマーケティングにもなりますぞ、とすこし興奮して話を向けました。

 佐々木さんをはじめ弘前劇場の長谷川孝治さんらと夜更けの琴似のまちに流れて議論白熱。モーツァルトの楽曲をプラットホームにしたホンを書きたいという長谷川さんの構想などが話されました。
 札幌でまたおもしろいことが始まりそうです。
by waimo-dada | 2013-06-15 17:37 | アートな日々

新前橋駅(2)

 新前橋の周辺にこだわる。

 「新」のつくところはいずこも同じだが、新前橋駅には詩人が郷土を離脱し、郷土に帰着する際の記号のような匂いがある。そんな匂いに引かれたとしても、萩原朔太郎の新前橋駅は自己を握って立つ現場でなければならなかった。とすれば、郷里、郷土というのは、自己と決着しがたい難物ではなく、むしろありがたい。朔太郎はそのあたりをうすうす承知で「新前橋駅」を書いたのではないか。
 朔太郎は確かにこの国のあちこちを旅した。しかしそれは妹を亡くして北上する宮澤賢治の樺太でなければ、妻を伴って一種無頼の旅を続ける金子光晴の巴里でもなく、まして司馬遼太郎のニッポンと世界のありようを探求するように大股で「街道をゆく」旅ではなかった。
 そうであるなら、劇的な詩歌をうたう詩人が劇的な旅をしなかった、という事実だけが残される。
 萩原朔太郎の旅がどのようなものであったか。彼なりのごく自然な漂泊の旅であったのだろうが、その表情の奥底をわたしは知ろうとしてまだ知らないでいる。 
 やがて明治期からの壮大な夢と失望がともに終わるときを迎え、時代と若者は過去の精神に無頓着に旅に出る自由とわずかな金を得る。戦後の新前橋は南の首都と北の山岳地帯に旅立つ駅、経済と精神の分岐点ないし結節点に位置することになる。

 経済の高度成長を迎えた一九六二年の春、新前橋に程近い前橋市と高崎市の境界に国立群馬工業高等専門学校が両市の誘致合戦の末に建設された。翌六三年、校歌の作詞を依頼された詩人佐藤春夫が、桑畑が広がるばかりの校舎を訪れた。春夫はわたしたち生徒が見つめるなかを思いのほかしっかりとした足取りで、技術者養成のために建設された匂いのない校舎を歩いた。
 「桑園開けてわが校舎」と、校歌の冒頭に無機質でありながら情況をみごとに俯瞰する詩句をおいたのは、あわただしく転換する時代への無言歌であったか。
 翌年、詩人は静かに世を去る。

 ささやかな思い出のついでに言えば、校歌の作曲を任された信時潔(のぶとききよし)のメロディは悪くなかった。
 まだ舗装もされていない道をバスに揺られて桑畑のなかに小島のように浮かぶ学校に通い、国立なのに整備が不十分な運動場で体育の時間に「土建体育」と称して石拾いに励む。のどかなと言えば言えなくもない上州の新しい荒地に立ってゆったりとしたテンポで榛名山に向って歌う校歌には、典雅で高潔な何かがあった。
 信時が大伴家持の歌に乗せて作曲した「海行かば」が軍事大国ニッポンの死に際に利用されたことをわたしが知るのは、それから何十年もたってのことである。信時潔の仕事は実直そのものに見えた。氏もまた佐藤春夫の後を追うように一九六五年に世を去る。
 いま思うことであるが、それは高度成長を下支えする技術者養成学校の校歌を明治の人がつくり、若い者たちに新しい希望を託して明治の時代に帰って行くという、この国の近代の小さな後姿であったにちがいない。

 そのころ、もう貧困にあえぐことはないが戦中と戦後の記憶を抱える親たちは新しい時代を先導するかもしれない国策に呼応するかのように、子どもたちを高専に送ろうとしていた。手に職を持たせる。そこまではやる。子どもが一人立ちするのを楽しみに。それが親たちの自らに課した義務であり、自分の存在の証明にしようとしていた。子どもたちはそんな親たちを厄介に思いながらうれしくも感じた。そうして入試の競争率は十数倍を数えた。そのなかにわたしがいた。
 新しく切り開かれたバイパス道路と桑畑の向こうにわたしは小さなナットかボルトのように置かれた。工業化を進めるニッポンの中堅技術者となることを求められていた。
 
 ある日のことだった。
 「中堅技術者って何ですか」と生徒たちが学校当局に穏健に問いただす場面があった。自分たちが時代のなかでどのように位置づけられるのか、直感的にわかってはいたが確証が欲しかった。が、わかりやすい回答はやはりなかった。子どもたちは優しく手なずけられるべき対象にすぎなかった。
 管理者は誠実に「工業の現場で生産性を高める誠実なボルトになることが君たちの使命だ」と言うべきであった。
 国立大学の教授を長く務めたらしい白髪の温厚な校長S氏は、わかっていてもそうは言えなかった。おかれた立場からは、せめて「新しい時代を切り開く現場のプロがひとりでも早く育って欲しい」と言うべきであったろうに。しかし、心にないことは言わない。言えなかった。そんなS校長の誠実が幼いわたしの骨格に栄養を与えたことを、わたしはいまひそかに誇りに思う。
 
 そのころもいまも子どもたちは少しも愚かでない。ある者は状況を瞬時に理解して明るく楽しい学園生活を選び、ある者は悩んだ末に大学進学に転じ、またある者は灰色の時間にいるばかりの自分を見つける。そんな子どもたちの何人かが深夜、新前橋の駅から国境の山々へ、生と死の匂いの充満するあたりへ、どこか心に秘めるようにして旅立つなど、親たちには思いもよらなかった。 
 明治以来貯えてきたものがあの戦争ではじけた。バブル経済の崩壊などとはあまりにもスケールがちがう時代の転換をわたしの父母の世代は心身で丸ごと深く体験した。
 このことは、彼らの名誉とニッポンの歴史のために後世に伝えなければならない。
 わたしはその総括なくして現在と未来について言及できない。

 学校の寮から新前橋駅までは歩いて三十分もかからない。高度成長の続く一九六〇年代前半の週末、上野発秋田行きの夜行列車は同世代の若者を満載して関東の平野から北方の鉄の山岳地帯に分け入ろうとしていた。新前橋の駅が暗い街灯の下で輝いて見えた。汽車の車輪がひとしきり平野の夜の底を軽く軋んでみせた。
 やがて汽車は若者たちのいくらか屈折した気分を重ねるように横たえて走り出した。通路で新聞紙を広げて仮眠できたら幸運という当時の国鉄にとってはありがたい満席満車市場(マーケット)、旅の形が生まれていた。そんな時代にわたしは途中乗車した。
 いま、国立群馬高等工業専門学校の周辺にどれだけの桑畑が残されているだろうか。養蚕が消える群馬に先端的な中堅労働者養成機関を設置したというなら、それは戦争に負けてまた這い上がろうとする昭和の後期に新たな富岡製糸工場を植え付ける、時代の作業にほかならなかった。
 そのときわたしと学校と国家は、好むと好まざるとにかかわらずひとつの場所にいた。

 (ひとまず本州の、郷里の駅について閉じる。次は北海道の駅に飛ぶ。いや、そうはいかない。世話になった土合・土樽にふれなくてはならない)
by waimo-dada | 2013-06-14 01:03 | わたしの駅

新前橋駅(1)

 第二次世界大戦後、前橋あたりに生まれて山が好きになった若者の多くは、上越線の列車に乗って国境の山に向った。新前橋駅が山の旅の出発点となり、ほとんどの人が帰着する駅となった(まれに還らない人もいた)。
 いまはごくありふれた、建て込んだ町並みに忙しく車が行きかうこの土地の記憶を訪ねるには、再び萩原朔太郎氏の力を借りなければなければならない。氏が鉈と剃刀を両手に持って時代と自分に対した連作詩集『郷土望景詩』の「新前橋」はまず、彼に押し寄せる文明に対して生理的な不快感を表出する場、時代の代理人的な新開地として登場する。

 野に新しき停車場は建てられり
 便所の扉風にふかれ
 ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。

 この書き出しは作者自身が選んだ風景に対する挨拶のようなものであり、「新」という字が付く町の悲哀についてあえて語る必要はないだろう。
 続けて氏は「この暑さに氷を売る店とてなく、まわりは麦畑が広がるばかり。望みのない心を癒すには旅に出るほかないとわかってはいる。しかし、いまのわたしは古びた鞄をさげてよろめく痩犬だ」といったことを、疾走するようにうたう。

 われこの停車場に来りて口の渇きにたへず
 いづこに氷を喰まむとして売る店を見ず
 ばうばうたる麦の遠きに連なりながれたり。
 いかなればわれの望めるものはあらざるか
 憂愁の暦は酢え
 心はげしき苦痛にたえずして旅に出でんとす。
 ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
 われは痩犬のごとくして憐れむ人もあらじや。
 いま日は構外の野景に高く
 農夫らの鋤に蒲公英の茎は刈られ倒されたり。

 そして、まるでいまのわたしたちがテレビでワグナーの楽劇を見るように劇的な詩句で風景を閉じる。

 われひとり寂しき歩廊の上に立てば
 ああはるかなる所よりして
 かの海のごとく轟ろき 感情の軋りつつ来るを知れり。

 朔太郎の「新前橋」は時代という舞台上で個人の精神と肉体の流れを視覚的に描いた点で画期的な「演劇詩」となったが、そこに潜む思い定めのようなものを捨て置くことはできない。自らの旅、すなわち出立について言いよどむのは、当時裕福な家に生まれたゆえに郷里と厄介な関係を持ちつづける「名家の居候」の萩原朔太郎氏が、大いなる出立を経済的な理由からだけではなく郷里との全体的関係から、自己保存という動物的な直感に基づいて自ら抑制したか、旅することへの夢想において劇的ではなかったかのどちらかに起因する、と思われる。
 『虚妄の正義』所収の「旅行」で、萩原朔太郎氏が、

  旅行の實の楽しさは、旅の中にも後にもない。ただ旅に出ようと思った時の、海風のや
 うに吹いてくる氣持ちにある。
  旅行は一の熱情である。恋や結婚と同じやうに、出發の前に荷造りされてる、人生の妄
 想に充ちた鞄である。

と美しく明瞭に書いたところで、いや、旅の本義に関わる部分に賛同すればこそ、けっしてそれだけではあるまいと言い掛かりをつけたくなるものが残る。旅行を夢想すること自体が朔太郎氏の特権に属した。しかし彼が、彼の現実を書いたのも紛れもない事実であった。
 彼の足元に戻ろう。
 萩原朔太郎は郷里とよく粘着する詩人であった。旅に出ることは、する。実際、彼は関東を中心に本州各地の旅をよくしている。東北の医師に嫁いだ妹の幸子を連れに避暑に出かけるあたりなど、戦前の中産階級のゆとりと知識人の自由が感じられる。妹との旅はなかでも心休まる旅であったろう。が、何かを振り払うような旅はしない。彼には粘着して戦う確かな現場がなによりも必要であったからだ。闘いと保身と自己説明が新前橋駅でてんこもりの熱情となり演劇詩となった。
 それは戦後の少年の旅と無縁ではなく、実質において人知れず密通することになる。
by waimo-dada | 2013-06-14 00:51 | わたしの駅

本谷から芦別岳へ

 団塊世代のわたしの周辺では「元気なうちに歩きたい山」の話をすることが多くなりました。
「登り残した山」も気になります。ゴールデンウィークの前半に出かけた道北のピッシリ山もそのひとつでしたが、長い林道を歩くところからきつかったです。人生を生きようとするならすこし急ぎなさい。甘くないわよ。そんなメッセージを聞いたような気がします。
 例年より雪が多く長かった冬のせいで連休気分の陽気な山になりません。暗い冬のトンネルの出口でウロウロしているような山旅になるとは思いもしませんでした。なにもかもが冷たく湿気っているのでみんなが大好きな焚き火が燃え出すまで苦労しました(道北の山についてはまた別の機会に)。

 遅くやってきた初夏が歩みを速めたのはその年の季節の結末に辻褄をあわせるためでしょう。
 6月上旬に陽の光がまぶしい芦別岳に行ってきました。夏のおわりに予定するわたしの劔岳の準備山行をかねて、頂上から鋭角的なラインを描いて落ちる第1稜を旧い山の友のTと登る計画です。
 36年ぶりの山。きつい高巻もある沢沿いの道にしごかれてようやくたどり着くと、明るく開いた河畔林に古びた石積みの小屋がそっと現れます。ユーフレ小屋です。河原で焚き火をしました。河原も流木も乾いているので簡単に火がつきました。
 山小屋好きのわたしはのんびりと滞在しながら、若いときのように1稜だけでなく夫婦岩なども登れたらとふと思うこともありましたが、現実はきびしいものになりました。
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 翌朝4時すぎに小屋を出発して9時に登攀を開始。先行パーティーがいたこともあって本谷側の上部から慎重に登路を求め、安全第一に10数ピッチ。「ノーザイルでタカタカ登れるさ」というのは昔のことでした。
 念のため担いでいったハンマー、ハーケン、カラビナの三つ道具とシュリンゲが大活躍。確保のために岩にハーケンを打ち込むなんて想定外でしたが、バランスが悪くなっている体を高みに持ち上げるには安心材料が不可欠でした。心に刻むのは落ちないこと、無理をしないこと、ひるまないこと・・・。これ以上ない天気が味方をしてくれました。
 ザイルのトップを交代しながら3時間近くを要して頂上にたどり着きました。ひ弱なわたしはバテバテ。本谷の雪渓を一気に下るはずのグリセードもくたびれるのでピッケルに体を預けて休み休みです。
 ユーフレ小屋に戻って大休止して共同装備を担ぎ、きびしい沢沿いの道をなんとか歩き通し、無事下山しました。

 山は全身を使って登り降りするものだと痛感しました。体幹、バランス、すべてが確実に劣化しています。老化とはいいません。劣化です。長い間の経験で鍛えたルートファィンディングの力が筋肉力とは無縁に残っていたことが救いでした。

 登攀パートナーのTがヤマレコに記録をアップしましたので興味ある方はどうぞ。友がいてなしえた60代の山登りでした。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-309005.html

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by waimo-dada | 2013-06-12 22:50 | 山と旅

前橋駅(2)

 詩人は、黙する祖父母のような存在であろう赤城についてうたうことを好まなかった。が、少し厄介なことに、町のそちこちに目に見えない自画像を涙のような点にして残した。わたしたちはそれを彼の詩とともに前橋の町を歩くなかで確信する。
 『郷土望景詩』の一連の詩がとりわけ強く美しく哀しいのは、「大渡橋」から「広瀬川」に続くあたりである。
 公園の木々や川面など往時を偲ばせる都市の記憶が朔太郎の影を浮かびあがらせる。
 歩かずとも彼の詩篇をたどれば、詩人と国土、そして郷土の関係を伺い知ることはできる。しかし何かが欠ける。歩いてわかることが残される。 

 詩人はたえず生きようとしていた。生きるとはひとりになっても自分を直立させ、川の流れに自分のいまを見ることである。川の流れ、と言ってしまうのが粗雑にすぎるとしたら、重力を蓄えながら足早に去ってゆく水の質量に抗しながら渾身の思いを託し、託す自分を見た。それゆえか、山に視線を向けてもついに山とうたいあうことはなく、「才川町こえて赤城をみる。」とあっさりと記した、のかもしれない。
 帝国海軍の正式航空母艦「赤城」が遠くミッドウェイの海に沈むのは、その先のことである。大勢の名もない、明治期からのニッポンの歴史と郷土、家の名誉とあまりに小さすぎるワタクシのすべてをひとつに束ねて直立する田園の兵士の群と、そこから微妙な距離にあった高名なひとりの詩人は、たまたま同じ一九四二年に死ぬ。
 彼らと彼があと三年生きていたら、とは言うまい。

 前橋の駅から赤城山に向うとしたら、山塊の中腹から鍋割山、荒山のあたりを歩くとよい。ツツジの花の盛りのころ、関東平野を一望する外輪山の稜線を歩いてから南面の赤城神社に下る道などは、人の気配も少なく、ただひたすらに明るい。
 また、もし萩原朔太郎の赤城と『郷土望景詩』の関係を見ようとするなら、「才川町こえて赤城をみる」地点と思しきあたりから前橋文学館、広瀬川、前橋公園へとたどり、「帰郷」の詩碑の残る敷島公園の河畔林を歩いて浄水場の庭に出るとよい。
 赤城の山がはればれと広がる風景が、いまもそこにある。
by waimo-dada | 2013-06-06 21:46 | わたしの駅

前橋駅(1)

  いつごろまでのことだったろうか。駅前の欅並木を北に歩くと、足がふと軽くなる地点があった。
 前橋駅から国道50号を越え、上毛電鉄の中央前橋駅へゆるやかに下ろうとするきわに、赤城山が外輪山の鍋割山を中心にすえて現れる。
 そこに差しかかると、いつも空が大きくなるのを感じた。
 前橋は関東平野の縁にあるが、山の町というほど奥まってはいない。町の西の縁を利根川が太く、赤土の関東ローム層とその下の地層をえぐって流れる。が、土地の全体はのびやかで屈するところがない。そこに赤城山がなかったら、平板な町という印象が残るかもしれない。
 群馬県民に親しまれている上毛かるたで「裾野は長し赤城山」とうたわれる赤城山。
 その山は、どこから見ても裾野が長く、美しいだけでなく、平野が北に広がるのをしっかりと押さえていて、ここから山地が北に続くことを静かに思わせる。そんな容量を兼ね備えながら平野を飛び抜けているわけではなく、昔から静かにそこにあるふうな地味な山塊でもある。美しいが平凡な、見方によっては土地の誇りと因襲を象徴する点においても日本的な名山と言える。
 前橋という町と赤城山の関係は、裾野の分の距離だけ隔てられる。それがあるとき、平凡な者同士のおだやかな婚姻に見えもし、予想を越えた人と自然の関係を見せもする。
 
 わが国の山はどこでもそうであるが、赤城山はとりわけ人の目にふれる条件にあったのか、人の思いと世の移ろいをその名に記すことになる。しかし、詩歌を能くする人々が郷里の山河をおおらかにうたい残すという至極自然な人の世の習いのなかで、前橋というどこにでもある保守的な町は、皮肉にも新鮮な詩歌の旗手を持たされた。萩原朔太郎という奇跡である。
 よく知られた「帰郷」という詩の一節。

  わが故郷に帰れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽車は闇に吠え叫び
  火焔は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。

 この「上州の山」に占める中心的存在が赤城山ではなかったか。
 萩原朔太郎の「帰郷」は、北に向って疾走する夜汽車と詩人の暗く熱する身体から生まれた。そして、近代の文明とそれをどこか愛しながら強烈に反発する精神とがもつれ合い、はげしく北上する夜のベクトルを受け止める器は、郷土の物理を代表する赤城山しかなかったと思える。
 そう考える背景に、同じ詩人の「才川町」がある。その一節。

  わたしの暗い故郷の都会
  ならべる町家の家並みのうへに
  かの火見櫓をのぞめるごとく
  はや松飾りせる軒をこえて
  才川町こえて赤城をみる。

 ここにひそかな緊張感で観察される赤城は、うたわれる状況において「帰郷」の山と異なる質量がある。「こえて」みる詩人に対して、赤城は何も語らず、たおやかに北に位置している。
 町が木造の町屋を低くならべていた時代に、赤城はいまより大きく近く望むことができた。
 「才川町」は、『郷土望景詩』のほかの詩と同じく、ある地点に沿ってうたわれた。「才川町こえて赤城をみる」地点が先ほどの箇所である。赤城はかかる地理的な地点で存在を一気に大きくする。春の陽炎のときも、上州の冬のすさぶる風のときも、詩人の背後を支えた山ではなかったか、と一瞬思える。 
 しかし、赤城は、朔太郎の背後を守ったのでもなければ、彼を受け入れない郷土を象徴するものでもなかった。赤城はまず質量としてあった。「才川町こえて赤城をみる」という素っ気ない句が切実に響くのは、町の背後に山がある、山の前に師走の町がある、という事実にある。そのありかたが質量を越え、心情に迫る地点があったがゆえに、郷土を捨てたに等しいわたしなどが、朔太郎の目を通じて赤城を見ることになるのかもしれない。
by waimo-dada | 2013-06-06 21:42 | わたしの駅