N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

<   2012年 11月 ( 1 )   > この月の画像一覧

林間学校に行けますか?(2)

a0248862_1423753.jpg
 わたしは今なぜここにいるのか、長い時間がたってわかることがある。
 なぜ北海道に来た・・・。入学した大学で林学科に進んだのは。地方公務員から銀行系シンクタンクの研究員になり、北海道教育大学の依頼を受けて喜んで「余暇論」を担当したのは。サラリーマンをやめて札幌国際大学観光学部の教員になり、それもやめて上司も部下もいない自営業を選んだのは、なぜか。
 すべてのもとに「林間学校」があったように思う。
 子どものときに林間学校の存在を知ったわたしは、いつか林間学校に行ける身分になってやろうと思うようになっていた。大人になれば林間学校なんて関係なくなるのに。
 林間学校がいつしか豊かな暮らしの象徴に転じていた。
 赤城山の山麓の町を抜け出して遠くに行きたい。きれいな雪が降り積もる土地へ。
 そんな思いが重なったとき、遠くにぼんやり北海道が見えた。あのサロマ湖という茫漠とした湖を抱えて、無造作にオホーツクの海に砂地の海岸線をのばす北海道。ほかはなにも知らない。地図を見ることが大好きだった青少年が北海道に片思いした。そしてやってきた。
 
 父の軍人恩給が学資になった。ありがとう、父さん。
 農家の末息子で職業軍人を選んだ父は息子が旧帝国大学に進学したことを喜んでくれた。だから北海道の林間学校に行きますなんて言えない。ほら、山の道具も本も捨てたでしょ。しっかり学んでくるからね。

 親にウソは言えるのに、いいやそんなふうだから、生きるのがへたで20歳になっていた。
 両毛線の小山で東北線の急行八甲田に乗り継いで青森。青森の駅でなぜ人々が連絡船に向かって走り出すのかわからない。大きな荷物を手に無言で。あれは、戦後を生きるというのはこういうことだったのよと映画のワンシーンのように背中の群れがわたしに教えてくれた、と今になって思う。

 チッキ(*)ひとつで北海道に渡ってきたら、本当に林間学校があった。北海道大学体育会山岳部。
*駅で受け取ると安く済んだ国鉄の手荷物輸送サービス。わたしは布団と電球スタンドだけの包みを学生寮のリヤカーを借りて受け取りに行った。
 体育会のクラブなのにアカデミック・アルパイン・クラブ・(オブ)ホッカイドウ(AACH)と名乗っていて伝統があるらしい。ルーム(部室)は古い木造の文化団体連合会館の奥にあった。建物はクラーク会館と中央ローンと図書館と農学部の間にある。クラ館には食堂と喫茶店がある。教室にはいつでも行くことができるから、行かないでもいい。
 
 石炭ストーブを囲んで先輩たちの話を聞いているだけでも楽しい。まわりは大きなエルムの木々と芝生。これ以上ない遊びの基地、いや林間学校。となりの部室は演劇研究会。その北大演研と糸が紡がれて数十年後には北海道演劇財団や演研出身の劇作家で俳優の斎藤歩さんのサポーターになるのだが、当時はいつもだれかが駆けて叫んでいるという体育会系クラブ。アングラ劇が全盛の時代だった。

 山岳部に入るとすぐに合宿の準備になった。合宿は年に2回、十勝岳連峰で5月連休と冬山山行の入山前にある。
 大学の山岳部やワンダーフォーゲル部では合宿が部活動の中心にあるのが普通だ。が、北大山岳部はちがっていた。合宿する時間なんてもったいないから、廃止して自由な個人山行に当てるべきだ。いいや、合宿はルームに培われた技術と文化を伝承する機会であり、互いを知ることは互いの山行計画を検討するためにも欠かせない。合宿は絶対に必要だ。そんな議論がとびかうクラブだった。

 1960年代末当時、16人にひとりの確率で遭難死亡事故が起きているといわれた。実際、ルームの壁の上部は山で死んだ先輩たちの若い遺影で囲まれていた。
 どんな山登りを目指すか、ルームが経験していないそのルートで予想されることはなにか、問題にどう対処する、そもそもメンバーを安全に街に還す力量がお前にあるのか。議論することはいくらでもあった。
 オールラウンド、プリミティブ&コンプリート。沢登りも岩登りも冬山もやる。なるべく文明の利器に頼らないで。できれば完全に、今風に言うならノーミスで。そんな理想が語られる一方、岩登りだけやるのもよし、小屋に通うだけもよし、と互いの自由を尊重する気風をみんなが大切にしていた。当時、本州の一部の大学山岳部やワンダーフォーゲル部で問題になっていたシゴキはなかった。当然、上級生に命じられて重い荷を担ぐこともなかった。そんなかっこ悪くてクラブ活動の本筋からはずれたことは問題外、という青年たちのクラブだった。

 札幌近郊の森に北大山岳部が管理する山小屋がふたつある。そのひとつが現存する日本最古の洋式の山小屋であるヘルベチアヒュッテで、定山渓の奥山の白樺林のなかに立つ。札幌の藤女子大学や宇都宮のカトリック教会に名を残す建築家マックス・ヒンデルが故郷のスイスを思って近しい仲間とつくった、堅固で愛らしい山小屋である。もうひとつが北海道の雪を愛された秩父宮のご下賜金で建てられた空沼(そらぬま)小屋で、空沼岳中腹の池のほとりに老いたトドマツのようにひっそりと立つ。
 烈風が吹きわたる雪山の稜線ではときおり死のにおいが走る。そんな山の中腹や麓にトドマツやエゾマツが守る針広混交林や白樺の純林がひろがる。若者の身体をやわらかにつつむ山小屋がある。

 どこに行くか、いかに生きるか、すべて自由。自由という幸せできつい選択のなかを若者は生きていた。戦争に行かないでいい時代であったからひとは自由に生き、退き、孤独を受け入れ、傷ついた。ひっそりと死ぬ者もいた。幸福で残酷な青春。
 自由な人間であることと組織の一員であることの間になにがあったか。ルームを離れていった近しい友人たちの生と死に思うことは少なくない。

 入部したときにはただ楽しくてなにも感じなかったが、わたしはこれ以上ない林間学校に入ることができた。
 年に1回、秋の終わりに小樽の銭函峠をこえてヘルベチアヒュッテに行く。ドロノキの大木の下で、みんなで焚き火を囲んでぼうっとしているだけで楽しい。2012年の秋は歩みが遅く、10月も末になって日差しの柔らかい山道をほこほこと歩くことができた。

a0248862_143877.jpg

by waimo-dada | 2012-11-07 03:27 | ライフスタイル