N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

カテゴリ:ラジオな日々( 4 )

ラジオ発、書籍捜索隊

 ラジオな日々に欠かせないのが質の良いトーク番組。これが少ないですね。

日曜日の昼すぎのNHKFMはその少ないトーク番組で、おもしろいのに当たるとちょっと得した感じになります。先週日曜日(2013.9.22)の「トーキングウィズ松尾堂」はわたしの好きなイラストレーター安西水丸さんと缶詰博士といわれる黒川勇人さんがゲスト。“子どものころ缶詰のラベルや挿絵を描く人になりたかった”安西さんの話とナポレオンの軍用携帯食料に始まるという奥深く世界の広い缶詰の話が交わって、楽しいほのぼのトークになった。(お話のあらましはNHKのラジオ番組サイトをどうぞ)

 安西さんは画家になろうとはまったく考えずにイラストレーターになったという。一方の缶詰は、私見によれば、そのままでは料理そのものと比べようがない食品工業製品である。つまり両者は非ゲイジュツという特性、もしくはゲイジュツでなくて一向にかまわないという自由な出自を相持つ、遠くて近い親戚のようなものである。
 しかし、ここが肝心なところだが、イラストレーションと缶詰がわたしたちの暮らしにおいてすこぶる有用な存在であることはだれも否定できない。イラストのない暮らし、缶詰がない暮らしを想像するや否や、わたしたちの日常に味気なさ、安心と便利のなさが降るかかることを初めて知って、ようやく事態が容易ならざるものと認識されるのである。

 ふだん、母さんのツナ缶や父さんの焼き鳥缶などごく一部を除いてあまり缶詰を利用しない人々にとって、缶詰の有用性はせいぜい非常事態に備えて備蓄するものくらいの理解にとどまるが、料理がそのまま入って型くずれしない点でレトルトに勝り、かつ大量生産できるので経済的であるといった点はもっと知られてよいだろう。
 最近、缶詰を食しながら一杯やる缶詰バー(缶詰スタンドといったほうがよいとわたしは思う)や缶詰料理の専門店が街に登場してきたのは、人々が缶詰の可能性と経済性を我が身で考察するうえでまことに理にかなったことであり、広く市民に、とくに芸術家と美食家に推挙したいところである。

 さて、安西水丸氏のこと。
 あ、あの本を見たい、読みたいと本町病院のベッドのうえで思いついてしまった。
 ラジオのトーク番組が一冊の本を探させるのは、音楽番組がCDを探させるのと同じで、これも理にかなった自然な行動である。しかし、探させる本人は病院にいて探す人々は家にいる。えらいことになってしまった。

 本のタイトルはサイトで作家名を検索してすぐ思い出せた。家人はその本を自宅で見かけたことをはっきり思い出した。わたし(たち)が探すハードカバーの本は品切れで簡単に手に入らないこともわかった。こうなったら探すほかないですね、家の者が。
 これが村上春樹・安西水丸『ランゲルハンス島の午後』(光文社、1986年発行の初版本)である。表紙がまさにイラストレーションそのもの。鮮やかな配色で全編カッコいい。しかし見つからない。かつて大量に本を処分したから蔵書といえる本の数ではないが、それでも居間と事務所のごく限られた空間にびっしりだ。捜索執行人であるわたしは家人2名に賞金付きで本格的な書籍1件代理捜索業務を命じた。
 だが、未だ発見ならずの報が続き、続き、夜になっても続いた・・・。

 捜索2日目。
 「見つからないなら古本を検索して買えばー」的家人Aに対する肉体労働派の家人Bがとうとう見つけた場所は、わたしが一番大切にする文学や自然・山岳系の本を集めた本棚の下のほう。棚の下に小判ザメのようにへばりついているのがランゲルハンス島(膵臓の一部で、インスリンなどを分泌する膵島とのこと。大事なところだよね)だった。小説などと比べてなまじ大きいだけに邪魔にされ、一番上から一番下に降格されていたのである。ごめん、ランゲルハンス島さん、おうちのみなさん。
 家人Bの着眼点と執念にまたしても感謝。言い忘れたが、Bは単純労働派ではないのである。

 さっそく読んだ。イラストを見た。暇になったらめくろうととりあえず買って4半世紀がすぎていた。
 おもしろかった。村上春樹さん、安西水丸さんともにカッコいいうえに、都会的なエッセイとイラストがギターとピアノのデュオのような具合になっている。いや、ヴォーカルとピアノか。ステージはハードカバー。今でも表紙が変わった文庫本で手に入るが、このハードカバー本のカッコ良さ、家族の時間を犠牲にしてこの手に戻した至福の時がどれほど伝わるか。

 翌日。
 朋あり。遠方より来たる。
 昼前に、美瑛からN島さんが見舞いに来られた。
 メールとブログをご覧になったのですね。
 「いやー、びっくりしました」
 N島さんはお優しい。律儀である。
 5年にわたる『北加伊道カルタ』の制作をともにした仲間のひとりで、手間ひまのかかる寄り合いに遠い美瑛からほとんど欠かさずにやって来られた。合宿と称してN島さん経営のペンションにみんなで押し掛けたこともある。

 美瑛でいま改めて問題になっている観光客の農場立ち入りという、マナーも節操もない不法状態の話になった。わたしは、何も知らない観光客に優しく諭して問題を解決しながら美瑛ブランドを高める「美瑛ルール」の考え方と枠組みをN島さんに提案した。雪崩事故防止を旨とする「ニセコルール」や富士山のこの夏の登山抑制策を例にとりながら。
 N島さんはとても喜んでくれた。が、うれしかったのは不器用ながらプランナー、アドヴァイザーとして生きてきたわたしのほうである。
 N島さんは同じ世俗の海をわたりながら、とても自然に人に優しく生きてきた、世間にあまり見ない方である。
 安西さんたちの本のように穏やかなN島さん家族の幸せな仕事ぶりと、そこから望む十勝岳連峰の大きな四季を想う。
 それも、また楽しからずや。
 
写真注)2枚目の怪しげな器物はわたしの子どものころから売られている「中山式快癒器」。腰や背中がだるいときに下にし、自分の体重で圧をかける。痛くないし、癖になる心地よさ。入院してすぐ家人に運ばせたがほとんど使わないのは本町病院のベッドが優れているからか。
 国際特許を取得しているトウキョウメイドゆえ、2020年のオリンピック土産にいいのではと思う。

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by waimo-dada | 2013-09-25 15:48 | ラジオな日々

人生はビフォー・アフター

 ここは札幌東区のとある消化器系の病院。とりあえず東区本町病院と呼ぶ。

(いきさつ)
2013年8月22日(木)夜、札幌市文化芸術基本計画作成小委員会。次回は9月19日(木)と決める。
8月23日(金)ADO12:15で富山へ。予定では室堂〜劔澤小屋〜長次郎谷〜6峰Cフェイス〜八ツ峰上半〜劔岳〜劔澤小屋〜仙人池〜阿曾原温泉〜欅平。山中5泊6日の予定。ザックは22ℓ。
8月24日(土)室堂から劔澤小屋に入山。歓待を受ける。北大山岳部の先輩、富山県立山芦峅寺の故佐伯富男氏(愛称トンコ)とそのご子息高男氏、小屋の縁者の皆様に感謝。高男氏の紹介で雇った登攀ガイドの多賀谷治氏と合流するもわたしの膝の調子が悪く、登攀を断念。25日(日)快適な小屋に滞在。26日(月)、晴れわたる尾根筋を室堂にゆっくり下山。咲き残る夏の花のなかに秋の花が咲いていた。
8月27日(火)新日本海フェリー新潟10:30小樽行きに乗船。夕食の時これまでにない違和感。
8月28日(水)朝、北アルプス剱岳旅行から戻り、本町病院内科診察。
翌29日(木)朝の再検査で食道ガンと診断され、即入院。
手術はできないので9月2日から抗がん剤と放射線による治療に入る・・・。
 
 入院に際してのわたしの3G宣言。「がんばらない がまんしないで ごきげんライフ」
 能天気なわたしらしい、と自画自賛していた。
 治療の副作用があることを事前に知りながら、苦しむわたしを想定しないようにしていた。
 結果は3日で出た。東電や国が犯した大きな過ちと罪に少しも学んでいない自分がいた。まことにヒトはおろかな生物である。もちろん、わたしに限られる話でありますが。

 治療を休んで1週間。今、気分はまずまず。ただ、37.2±0.2の微熱が続いて集中が続かない。おまけに入院早々にどうしたわけか、いきなりの視力ダウン。
 家人に頼んで最初に持ち込んだ本、梅原猛『法然の哀しみ』はおろか、新聞を読むのもままならない。そんな不幸に突然見舞われたわたしではあるが、こんなこともあろうかと(ホントはこんなことになるなんて、まるで想定しないで)優秀な山ラジオを所有していた。ソニーICF-R100MTである。アンテナを兼ねるイヤホンの性能がまずいい。小さくて軽いのでお仕着せの寝間着のポケットにスポンと入るのもいい。
 しかし、これはわが国の電機業界にとって悲しむべき事態である。トランジスターラジオで始まった戦後のソニーの歴史が、超LSIのポケットラジオで事実上の終焉を迎えたことを意味しているからだ。世界を画期するほどの新製品を産めなくなり、ソフト産業の上がりで食い忍ぶソニー。木のように朽ちる時期を迎えたか。

 ラジオ様にすがる日々が始まった。
 耳にしたのは、お前ら何をしとるんじゃーなラヴソングの実態だった。

 陳腐な歌詞が続々と耳に飛び込んでくる。
 ラジオの海はB,C級ソングであふれていた。
 信じられないのは、創意・工夫・努力をあっけらかんと放棄した神経と業界の傾向である。 
 「売れ筋をちゃんとマーケティングしてつくってますよ」。作詞を担当する若者はそう答えるのであろうか。青春のときが、光が、陰が、あなたがいてどう、いなくてどう・・・と。言葉をとっかえひっかえ、ペルソナのようにくっ付けて恥じないシゴトが日常的になっている。どこから見ても同じ仮面を付けた不気味な多面立像が灰色の海に浮かんでいる。
 そんなものは仕事とは言わない。プロフェッショナルという言葉から遠すぎてため息も出ない。

 シンガーソングライターも時代背景は変わらない。やさしげなメロディーラインに薄っぺらな感傷を乗せているが、いまにも落ちそうで見ていられない。日記に書くのも恥ずかしくなるような言葉を無頓着に公共財である歌の歌詞に仕立てる不誠実さが跋扈している。
 おじぃさんだってたまには聴くのだ。聴き手に失礼だろう。
 なにしろ、とにかく不勉強。
 いま評判の同世代の歌人の創った歌集くらい手にとって、声に出して詠んでびっくりしておくれ。
 「いつも同じ連中とつるんでいるせいか歌詞が広がらないし、深くならないと思ってはいます」
 もしそう考えているのなら、あなたひとりでいいから半歩、あなたの内なるムラを出るといい。

 いま、ぼうだいな言葉のゴミの山を残す荒野をJポップ業界というのか。ジリ貧の業界は真に売れる商品、本質を伴うA級品を発掘する間の巨大なすき間をB,C級ソングで埋めようとする。新曲を持ち込まれるラジオ局もまた新鮮な音楽情報として取りあげたいものだから、いそいそと放送波に載せる。その結果がこうだ。おじぃさんはまったく同情しない。

 こんなときはラヴソングの古典にあたろう。本質を伴うA級品の例などと言ったら創り手に失礼になるかもしれない、永遠のラヴソング。
 荒井由美作詞作曲「あの日にかえりたい」(1975)。三連の短い歌詞。その第二連。
  暮れかかる 都会の空を
  思い出は さすらって行くの
  光る風 草の波間を
  かけぬける わたしが見える
  青春の うしろ姿を 人はみな 忘れてしまう
  あの頃の わたしに戻って あなたに会いたい

 奥行きのある心象風景を静かにうたい、連のさいごで想いを表出する。間接話法で中景を描き、さいごの一筆で近景に直接話法で自分を描く。その自分もまた後ろ姿だ。ユーミンは多摩美の出身だったね。
 普通の言葉を使って歌い上げた、切なくも美しい叙情歌、日本の歌である。

 幾多の名曲を残した創り手のみなさんと伝えてくれたラジオ局に感謝しつつ。


注.添付する写真のビフォー(劔澤小屋の食堂で。映画「劔岳 点の記」の現地撮影を支えた多賀谷ガイドを雇っていた)は8月26日、アフターは入院してまもない同31日撮影
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by waimo-dada | 2013-09-14 20:39 | ラジオな日々

いつもラジオから風が吹いていた

 深夜、そっとラジオの音に耳を傾ける。
 むかし、ラジオが家庭の真ん中にあったときの名残である。ひとりきりの書斎にいても大きな音にはしたくない。
 真空管時代の大きな木箱のラジオは家族全員の情報プラットホームであった。日々のニュースから落語、講談、演歌、アメリカンソング、クラシック、ドラマまで、家庭の耳を満たす黄金の箱であった。
 それがトランジスターラジオになった。戦後の文明的爆発はこのトランジスターラジオの出現によるとわたしはいまもそう信じている。ラジオがいっぺんに小型になり、個人のものとなった。初めて自分のラジオを所有したときの興奮を微熱のようにいまも覚えている。世界がいっぺんにそこに来た。ソニーが世界で初めて制作したトランジスターラジオは、さあこれから本格的に生きていくからねという戦後ニッポンの熱い想いと接吻した。性能上は大した変化はないのに、幸せなラジオと人の関係が生まれた。

 ソフト面の変化も大きかった。「S盤アワー」という人気番組がいろいろな音楽の流行を教えてくれた。といっても、そのほとんどはアメリカ音楽だった。青少年の耳を通して体に入ってくる文化はほとんどアメリカ産。ちょうど、口を通して入ってくる学校給食の脱脂粉ミルクがアメリカ産の豚の餌だったように。
 選択の余地はなかった。漢学の素養もなければ日本古来の文芸諸般のたしなみもない戦後の国産青少年の余暇にささりこんだほぼ99%アメリカ産のポピュラーミュージックが、わたしたちのラジオ的身体を規定した。それはしかし楽しいことだった。伝統的な文化規範から遠く孤独な無個性を生きていた青少年たちにとって、アメリカ音楽はわかりやすく、乗っていける現代文明の軽車両、自転車のようなものだった。

 ラジオドラマをよく聴いた。「笛吹童子」(NHK、1953.1〜12)と「赤胴鈴之助」(ラジオ東京、1957.1〜1959.2)が人気だった。婦女子に大人気だったのは「君の名は」(NHK、1952.4〜1954.4)。放送の時間帯は銭湯の女風呂ががら空きになったという伝説が生まれた。
 テレビ放送が始まったのが1953年2月だから、わたしたちがラジオの前に集まっていた時代と重なる。当時、テレビは、電球や電気アイロンを売っている電器屋さんの店先で見るものだった。一般の家庭がテレビの時代を迎えるにはお金と時間が必要だった。
 それからしばらくして長いテレビの時代に突入したが、テレビはいま首長竜のように肥大化して衰退した。見るに値する番組はあるのだがインターネットを含む巨大な情報の海のなかで希釈されてしまい、存在が薄い。ではラジオはどうかというと、少数派を続けるなかで生きていく体と道を見つけ、絶滅危惧種にならなかった。なにより大喰らいでないのがよかった。
 聴く側も大喰らいではなかった。家族の人数は多いが所帯が小さい。いつも始末にしていた。

 仕事をしながら勉強をしながら、うたた寝をしながらラジオを聞く。いいなと思う音楽があったらすぐにラジオ局のホームページから楽曲を確かめてネットで調べる。そのままネットで簡単に購入することもできる。
 便利な時代になったからラジオが生きているという面もある。メールのメーリングリストやフェイスブックで、知人がラジオに出演するという情報が流される。聴き逃すまい、と録音の準備を始める・・・。
 で、ここからはわたしの抱える個人的問題。
 わたしが所有するラジオではテレビのように簡単に録音予約をすることができない。放送される日の時間と局しか指定できない。それがまた大変にむずかしい。操作が何手順もあって、10秒以内にキーを操作して選択しないと前に進まない。わが国の優秀な技術者がなぜ年寄りいじめの機械とプログラムを開発したのか、わたしの疑問は晴れぬままである。音はいいので買い替えるという選択肢はない。すぐれた音響メーカーが手がけた真面目でへたくそなCD・MDラジオ。まもなく骨董品として値がつくはずだ。

 たまにラジオドラマを聴く。傑作に出会えたときの喜びは大きい。NHKのFMシアターで2009年12月に放送された倉本聰さんの「マロース」のような傑作にまた会いたいなあ。
 人生は日々凸凹。録音できたり、できなかったり・・・。
 ラジオな日々がまた爽やかな夏を迎えた。
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by waimo-dada | 2013-06-24 14:57 | ラジオな日々

夏はラジオに水ようかん

 夏になったら六花亭の季節限定の水ようかんを買う。向田邦子さん推薦のミリー・ヴァーノンが歌う「スプリング・イズ・ヒア」でなく、SAYAKA&パルマ・アバネーラの「カフェ・ヴィーノ・イ・チョコラーテ」(コーヒー、ワイン、チョコレート)を聴く。涼やかで幸せ。オノコのいうことではないかもしれないがどなたにもお薦めしたい、北の夏のすごしかたその一。

 それにしても、それにしても、SAYAKAさんたちのライブを聴きに大通公園のテントシアターに出かけて大正解だった。それなりに知られた物産を買い集めたデパートの催事場のようなジャズフェスティバルの品揃えのなかで、SAYAKA&パルマ・アバネーラは新鮮でプロフェッショナルだった。先日のPMFの特別プログラム「ファビオ・ルイジと札響」が札幌の音楽史に残るプロ同士の見事な競演であったように、本物のエンターテイメントを成立させるのはプロフェッショナルな思想と技術だということの好例ではないだろうか。

 それにしても、です。SAYAKAさんがゲスト出演したFMラジオの番組を聞いていなかったらわたしは大通公園のテントに出かけていないわけで、いつもながらラジオとその番組を仕込んだ人たちに感謝したい。
 そのときは大雪山からの帰りに車を走らせながらのことだったけれど、ラジオで知った名曲やアーティストは少なくない。
 日高の牧場地帯をランドクルーザーで走っていたときに聴いたモーツァルトのピアノソナタはケッへル番号を頭にメモした。かなり懸命に。メモはわたしの頭がまだ灰色の脳細胞に占拠されていなかったときなので札幌に帰ってきたときも生きていた。
 ミーシャを初めて聴いたときもそうだった。何枚もCDを買い、やがて大晦日にライブを聴きに札幌ドームに行くきっかけになったのだから、わたしの音楽生活のなかでラジオが占める位置はすこぶる高い。

 毎年7月だけ買うことができる水ようかん。SAYAKA&パルマ・アバネーラの「カフェ・ヴィーノ・イ・チョコラーテ」。そしてラジオ。夏が半分終わりました。
by waimo-dada | 2012-08-01 00:20 | ラジオな日々