N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

カテゴリ:アートな日々( 11 )

「そのうち」はあしたに消える

 後悔することの多い人生でなんども同じ後悔をしたことがある。「ま、そのうちに」と言って、歩きながら物事を鞄のなかに放り込む。「そのうちに」という言葉は生まれつき怠惰な人間にはとても便利で、したいこともしたくないこともとりあえず先送りするときに使う。今日も明日も忙しいし、お金もないから「そのうちに」。あいさつ代わりにも使える、とても便利な日本語です。
 「一度、どうですか」「はい、そのうちに」
 なにもかもを軽くやりすごしてその日を暮らす。
 ある日とつぜん、後悔が黒い天使となって我が身を襲う。
 人生はそれをくりかえす。

 むかし北海道拓殖銀行が元気だったころ、拓銀グループの調査研究機関だった勤務先の東京事務所が拓銀築地支店のなかにあった。築地支店へは歌舞伎座の前を通っていく。ヒマができたらそのうち歌舞伎座に寄ってみようと、いつものように仕事でいっぱいの鞄のなかに「そのうち」を放り込んでいた。そうして、たくさんのそのうちが鞄の底に折り重なって沈んで化石になろうとするとき、拓銀がつぶれた。勤務先の親会社の銀行が消えてなくなった。1997年11月17日のことである。そこで少し目が覚めた。そうか、人や店だけでなく勤める会社がなくなるときがあるのだ。そのうちにと思ったらまず立ち止まろう。したいことに忠実になろう。気になったことは、まず始めてみよう。お出かけ好きな血を受け継いだわたしだ。そのうちにではなく、いま出かけてみよう。

 隅田川の平成中村座を訪れたのにはそんなこともあった。
 旅に出ようと、とつぜん家人に宣言して旅行計画を始めるのはいつものこと。どこでもいいから地図帳をパッと拡げてごらん。そこに行こう。それが伊豆箱根だった。よし、箱根の湯に遊んで帰りは東京で芝居見物だ。そんな軽いノリで当時気になっていた平成中村座を旅に組み入れた。2001年の秋の終わりである。
 大正解だった。演目は「義経千本桜」、中村勘九郎(当時)初役の知盛だった。
 しかし、平成中村座そのものの旅がとつぜん閉じる。この先もずっといると信じて疑わなかった当主が消えていなくなった。2012年の冬の初め、中村勘三郎はこつ然と世を去る。享年57。よもやこの若さで骨となって小屋のあった隅田公園に帰り、祭り囃子で迎えられるとは、だれひとり思わなかった。
 勘三郎さんが亡くなる前の年、わたしと家族は新橋演舞場の三月大歌舞伎で六代目中村歌衛右門の追善狂言「枷羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」を観ていた。そのとき栄御前を演じていた中村芝翫(しかん)さんが同じ年の10月に亡くなる。勘三郎さんの岳父である。

 勘三郎さんが新しい歌舞伎座の舞台に立つことをどれほど望んでいたか。みんなが待っていたことか。もうかなわない。
 お葬式の帰りにテレビ局のマイクに問われた内田裕也はこう返した。
 「おれよりロックンローラーだった」
 名言だ。いつも新鮮で、よく働く扇の要に中村勘三郎がいた。
 勘三郎さんの友、串田和美さんは今なにを思っているのだろう。わたしはそれを知りたい。

 2013年4月の歌舞伎座の幕開きでは坂田藤十郎がお祝いの「鶴寿千歳」を踊り、5月には枷羅先代萩の政岡を演じるという。わたしは2008年3月に藤十郎さんが喜寿の記念で踊った「娘道成寺」に圧倒されたことがある。軽々とつややかに舞う。歌舞伎座の高い3階席から観ていると、まるで舞台に大きな花が一輪咲いて舞っているようだった。今もとてもお元気だが、新しい歌舞伎座でもう一度娘道成寺の舞いを観たい。
 その日暮らしのそのうちに、わたしがなにかの拍子でいなくなる前に。
by waimo-dada | 2013-01-31 22:54 | アートな日々