N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

カテゴリ:ライフスタイル( 10 )

そっと語るか、わたしの好きなもの(暫定Vol.1)

 なるべく私的なことにふれないで生きてきた。
 塩梅がよくないからである。
 そう考える人は思ったより多くて、たとえば何十年も通う行きつけの酒場で病気自慢や孫自慢はだれもしない。当然、仕事や昔の自慢話などもしない。暗黙のルールを踏み外す人は自然に淘汰される。そんな人との会話は楽しくないからねえ。
 しかし、好きなものについてすこしおしゃべりしてもいいかな、とすこし重たい病を得てから思うようになった。「あの人、そうだったんだあ」と知り合いに思い出してもらい、そこからどこかへ話がすすめば「楽しいっしょ!」(北海道弁風に)。逆があるかもしれないけれど。
 と前ぶれをしてこれよりひとり遊びを。ま、無名・小才・遊び人なので四方八方に無害なのを当然至極として。
 人生の残り時間をふと考えて遊んでみたが、さっとこれだと言えるものがあれば、意外に決めきらないものがあることに気づいた。
 なお、「いい女」に関してははなから選択そのものを放棄した。それでいいのか・・・。とりあえずはいいとして「わたしの好きなもの」、まずは第一歩。

(1)好きな場所(1カ所)
 小さな山小屋(・・・薪のはぜるストーブのまわりや焚き火)

(2)なりたかった職業(ひとつ)
 山小屋の番人

(3)いい男(5人)
 ドイツ文学者の池内紀(いけうちおさむ)さん(山の温泉が好きな野外派リベラル)/デザイナーの三宅一生さん/作家の佐々木譲さん/建築家の隈研吾(くまけんご)さん/劇作家・演出家・俳優の斎藤歩(あゆむ)さん 

(4)いい女(5人。選択放棄中)

(5)好きな歌手(内外3人。曲名はおすすめ)
 日本:松任谷由実(雪月花)/OKI(トバットゥミ:襲撃の意)/古謝(こじゃ)美佐子(ポメロイの山々)
 外国:トニー・ベネット(ワルツ・フォー・デビー:ビル・エヴァンスとのデュオ)/ジョアン・ジルベルト(想いあふれて)/アンネ=ゾフィー・フォン・オッター(あなたは忘れはしないでしょう:ブラームス「ジプシーの歌」第7曲)

(6)好きな歌(内外各3曲)
 日本:「あたいの夏休み」(中島みゆき)/「瞳を閉じて」(荒井由美)/「亜麻色の八月」(Hi-Fi SET)
 外国:「カム・トゥゲザー」(ビートルズ)/「風に吹かれて」(ボブ・ディラン)/ドイツ学生歌

(7)戦後の歌姫(3人)
 美空ひばりさん、ちあきなおみさん。3人目はだれか、中島みゆきさんか。うまい人、優れた歌手は何人もいるが。

(8)好きなクラシック(5曲・アルバム)
 モーツァルト「ロンド イ短調K511」(ヴィルヘルム・バックハウス 1955年モノラル録音)/武満徹「リタニー」(小川典子)/ハイドン「ピアノソナタ集」(アンドラーシュ・シフ)/シューベルト「冬の旅」(ハンス・ホッター&エリック・ヴェルバ)/ベートーヴェン「弦楽四重奏曲第16番」(アルバン・ベルク四重奏団)

(9)好きなジャズ(5アルバム)
 アーチー・シェップ「アッティカ ブルース」/ビル・エヴァンス「エクスプロレイションズ」/マイルス・デイヴィス「ポーギー&ベス」/アン・バートン「ヒーズ・ファニー・ザット・ウェイ」/エラ・フィッツジェラルド&ルイ・アームストロング「エラ・アンド・ルイ」

(10)好きな映画(内外各5作)
 日本:是枝裕和「歩いても 歩いても」(2008)/新藤兼人「午後の遺言状」(1995)/小津安二郎「東京物語」(1953)/ヤン・ヨンヒ「かぞくのくに」(2012)/内田吐夢「飢餓海峡」(1965)
 外国:ウディ・アレン「ミッドナイト・イン・パリ」(2011)/ジャック・ドゥミ「ロシュフォールの恋人たち」(1967)/ジャン=リュック・ゴダール「気狂いピエロ」(1965)/ミヒャエル・ハネケ「愛、アムール」(2012)/マイケル・ラドフォード「イル・ポステーノ」(1994)

(11)好きな食べ物(四季)   *わたしの条件:素材・食材・食器は100%純国産。
 春:菜の花(ナバナ)のおひたし    
 夏:縁台で食べる「ところてん」
 秋:おはぎ           *子どものころ母といっしょによくつくった。月見饅頭も。
 冬:煮込みうどん

(12)好きな宿(3施設)
 洋々閣(唐津)/俵石閣(ひょうせきかく。箱根仙石原)/滝乃家(登別)
      *普段づかいの宿:海の別邸ふる川(白老市虎杖浜)/ロッジ・ヌタプカウシペ
       (東川町旭岳)/ヘルベチア・ヒュッテ(定山渓番外地)
by waimo-dada | 2014-01-27 23:45 | ライフスタイル

エゾリスは働き、ヒトは湯浴みする

 わたしの自宅の事務室はこの先、在宅療養の場になる可能性があります。
 事務室の西の窓はサワシバ、オニグルミ、イタヤカエデ、ミズナラ、ハリギリなどの高木広葉樹が卓越する藻岩原生林のつづきです。

 今日、この林に住んでいるエゾリスのM君がせっせと巣に小枝を運び入れました。まあ、けっこうな数です。寒気が入る前にヤチダモの洞のなかにエゾリス流の小屋掛けをしたのでありましょう。
 それをじっと見ていた家人Bとわたしは、なんだか自分たちもいっしょに働いていたような気分になり、午後は温泉にでも行きましょうか、ということになりました。

 連休明けの定山渓のホテル山水は思ったとおり静かで、ゆったりと湯浴みを楽しめました。
 帰りに古川さんの軒先で温泉まんじゅうを買い、ホテル鹿の湯裏の懐かしい保養所、たくぎん栖霞(せいか)荘(1988年竣工)の前に車を進めてもらうと、北洋銀行の寮になっていました。
 この保養所の設計を担当した石本建築事務所のS木さんに南茅部町の温泉施設の設計を頼んだことがあります。実直でかざらない栖霞荘に好感を持ってどなたのお仕事かと調べてたどりついた方がS木さんでした。そして、彼に担当していただいた建物が南かやべ健康村ひろめ荘(1995年竣工)、今のホテル函館ひろめ荘です。わたしが勤めていた拓銀グループの調査会社が南茅部町から公的宿泊施設の市場調査と基本計画を受注した縁で、建築設計を石本建築事務所のS木さんに斡旋したのです。
 旧栖霞荘とひろめ荘は、わたしのなかでは姉妹関係の施設となりました。

 時代を経て生き残っている温泉施設を見ると、それ相応の理由と背景があるようです。
 たいがいが小振りで実直で、余計なものがありません。
 オーナーが替わっても使われ続ける、そんな施設が、どうかこの先の時代にもありますように。
 そして、わたしたちがいなくなったあとも、M君たちの暮らす林がずっとありますように。
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by waimo-dada | 2013-11-05 18:56 | ライフスタイル

消えゆく檀家制度

 今日8月16日は盆の送り日。
 昨日、江別のT寺から領収書が届いた。寺院経常費として6千円なり。
 滅びゆく檀家制度の証文のように見えた。

 30年ほど前に札幌市厚別区に家を建て、群馬でひとり住まいとなっていた父を引き取ったとき、大きな問題になったのはお墓とお寺さんをどうするかであった。
 公営の墓地は空きがないので民間の墓地を手当てして、群馬の墓から母と妹の骨を分骨した。そうして、ある大きな寺の檀家総代を務める大学の先輩に相談して近くの浄土宗のお寺さんを紹介していただいた。お墓は札幌市南区藤野、お寺は隣町の江別市野幌ということになった。北と南にばらけて不便だが仕方ない。新興住宅地の多い厚別区に比べて移住開拓の歴史が古い江別は寺院の集積がちがう。

 群馬の墓は前橋市の郊外、養林寺という徳川の家臣牧野家の菩提寺のなかにあり、法事のいっさいを寺内で済ませることができた。そんな利便性以上にありがたかったのは、由緒あるたたずまいと住職ご一家のいつもあたたかい応接であった。
 こちらは郷里を捨てたに等しい人間である。そんな郷里に、まるで北海道の人のようにおおらかに迎えてくれる人たちがいた。訪ねるたびに赤城山麓の水を飲むような安らぎに会えた。
 墓は市道の拡幅に抵触したおりに、移転しないで養林寺にお還しすることにした。墓参においでになる方がほとんどいなくなっていたので、公共工事の補償で更地に戻してお寺にお還しできるのはありがたかった。

 東京は近いが赤城の山麓は遠い。
 案内を郷里の親族に差しあげ、さいごの法事を寺の離れで行った。名前のわからない年配の女性が「お父さんには世話になってね」と親しげに声をかけてくれたが、どなた様かとは聞けない。父は5人兄弟の末っ子だが甥や姪の面倒見がよかったらしい。
 親族といってもつきあいの浅い深いはあり、たいがいは浅い。それを承知で仁義を切る。互いにそれはできたろう。そのための法事であった。
 お寺さんご一家に長年のお礼を申しあげて郷里を去った。

 厚別区から中央区に移住して15年がすぎた。
 江別のお寺さんとのご縁をどうするか。むつかしい問題が残った。檀家制度の現状についてそれなりに知っていたからである。
 家から歩いて5分ほどのところにあるK寺は江別のT寺と同じ宗派の寺院である。厚別からこちらに引っ越した際に担当のお寺も近くに替わってくれたらよさそうなものだが、檀家制度の下ではそうはならない。父母兄弟の命日の供養のときには大雨でも吹雪でも江別から若いお坊さんがやってくる。一度だけ、猛吹雪のときに江別のT寺に替わって近所のK寺がピンチヒッターを務めてくれたが、向こうさんが相談されてそうなったのであり、わたしの選択ではない。
 江別のT寺を訪ねたことはない。

 実質的に年金生活者になろうとしたとき、暮らしの始末をどうするか、いろいろと考えた。 
 貧者の一灯というほどにも追いつかないが、貧困問題や教育、福祉、医療など民間の支援を必要としている活動にささやかな献金を続けてきた。削るのに忍びない分野である寄付をまず減らす。その手で、さまざまなつきあいを減らし、暮らしの習いになっていたことどもをざっくりと見直す。
 妻と話し合って供養は家族だけでやることにした。これまでと変わらず心を込めて。
 それで、T寺とはお寺の維持費をお支払いするだけの関係になった。

 無宗教の家族葬が非難されない時代である。檀家制度がどうなるか、考える人さえもうじきいなくなる。
 お寺さんと檀徒という関係がうすくなるだけでなく、存在そのものが世間で少数派になる方向にあることはまちがいないだろう。なにか、人生の大切なおつきあいのひとつがなくなっていくさみしさが残るとしても。
by waimo-dada | 2013-08-16 12:52 | ライフスタイル

選べる人生、そうでない人生

 今年度東川賞作家の写真家、川内倫子さんの才能はまぶしくて、若いときの自分とつい比べてしまう。
 http://rinkokawauchi.tumblr.com/

 むかし、自分のありさまがもどかしくて過激な山登りに走ったひとりの若者がいた。
 そいつは春の槍ヶ岳北鎌尾根に挑んで、墜ちて死んだ。
 メジャーになる一歩手前で北海道の地域のありさまを走るように書いていた、腕っこきのフリーライターがいた。
 そいつはガンで死んだ。

 いま、ネンキンという安全地帯に入った団塊の世代は何を思い、行動しようとしているのか。
 まちがっていないことをこの世に残したか。なにか、つけを残していないか。つけの払いをしないまま、あの世とやらに安穏に旅立っていくのか。

 わたしは、なぜこの国が当てのない戦争に突入してしまったのか、ひとりでずっと考えてきた。だれも教えてくれないから。
 たくさんの本を読み、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワをめぐった。硫黄島にはまだ行っていないけど。
 元帝国陸軍憲兵隊下士官の父とABCD包囲網について論争してしまったことがある。
 父はつらかった。普通に貧乏であった農民層から飛び立つために、親にいっさい負担をかけずに生きていこうと職業軍人になる道を選んだ。自由なようで「人生を選べない」、一種の志願兵である。命じられて他国の民を殺害するような修羅場に連れて行かれ、やっと生き延びて家族をなし、ただただ懸命に働いて守ってきたのに、なんで息子のお前から・・・。
 わたしが当時の父だったら、ABCD包囲網を突破するためにやむを得ずはじめた戦争だ、と言ったにちがいない。それが父にとっての真実である。そうではないんだとは、だれも、新聞もラジオも、知識人でさえも言わなかった。

 『はだしのゲン』が世界で20カ語に訳されて読まれている、とNHKの報道で知った。
 イラクから生還した元米兵が言う。「イラクに行く前に読んでいたら」。
 生還してもかれの戦争は終わらない。

 かれはアメリカ陸軍に「志願」した一兵卒である。従軍についても志願せざるを得なかった若者、と推測される。
アメリカの戦争執行態勢とそれを成立させている構造について、わたしたちは無頓着すぎる。「生まれついての格差・貧困」と「就職としての就軍」がアメリカの若者の主要なライフスタイルのひとつになるなんて。
 そんなことはこの国に起きないよ、とは言えない。
 「何をしてもいいよ」とこないだの選挙で国民は言ってしまったのだから。「そんなこと言った覚えはない」なんて、遅すぎる遠吠え。
 みんな、覚悟しなさい!

 わたしの伯母の夫は孤島のガダルカナルで死んだ、のではない。
 国家が始めた戦争で員数を埋めるために、招集を受けて南の島に敵前上陸し、戦病死した。
 死者には必ず死んだ理由がある。第◯会戦、戦死何百人、と片付けられては、死者はいつになっても歴史のなかで員数になるだけだ。

 わたしはいつもだれともつるまないけれど、家族と友だちを守る選択だけはまちがわない。
 まるで戦前のように息のつまる時代になるにしても、父母の世代を「世論」や一枚の紙で支配したような無責任な連中に、一回こっきりの人生を安売りしていい理由はこれっぽっちもない。

 そんなことを再確認する季節が来たようだ。三陸の浜にも。
by waimo-dada | 2013-07-31 11:09 | ライフスタイル

春が来て本が来た

 春が来た。寒がりの山羊のユキちゃんがハンカチのマントを脱いでうれしそうにしている。

 春が来た。新しい本が図書館からやってきた。予約して何カ月もしてから届いた松家仁之『火山のふもとで』と辻原登『冬の旅』。涼やかな小説と重い小説。
 来ない本もある。猪谷六合雄『雪に生きる』。わたしがかつて引っ越しの際に古書店に売った本の一冊だ。メジャーな岩波少年文庫だからどうしても必要になったらまた買えばいいと甘く考えた。が、今や猪谷さんの本は『猪谷六合雄スタイル 生きる力、つくる力』(INAX出版)を除いてすべて絶版状態。札幌の図書館にもない。あさはかだった。
 しかし、猪谷六合雄『雪に生きる』(戦前に刊行された元版)は意外と近いところにあった。北大山岳部のOB会である北大山の会が建設して北大に寄付した北大山岳館の図書室にあった。なぜすぐわかったか。サイトで検索してすぐに見つかるくらいにレファレンスが整っているからだ。山岳部の先輩であるNさんたちの長く確かな仕事に感謝しなければならない。

 先日、北大正門近くの古書店で入手した高村光太郎『赤城畫帖』は、高村のスケッチに猪谷さんが短いコメントをつけるかっこうになっている。
 たとえば「荒山頂上より鍋割山を見る」という題のスケッチにはこんなコメントがついている。
 「荒山から鍋割山への尾根伝いコースは、赤城山中で一番壮大な景観をもっているのだが、今でも通る人は極めて稀らしい。(後略)」
 わたしは今年の秋の終わりにこの尾根筋にテントで泊まる予定で、すでに群馬の友人の協力を取りつけている。昔の山仲間と燗酒をやりながら関東平野の夜景を眺める趣向である。新雪をかぶった山々も美しいにちがいない。

 冬季オリンピックのアルペン競技で日本初のメダリストとなった猪谷千春さん。その千春さんのより良いスキー環境を求めて国内移住の旅を続けた父六合雄さんは、1890年に赤城山中の大洞で生まれた。わたしはそれから約60年後に赤城山の南山麓に生まれ、荒山から鍋割山の稜線を眺めて育った。家の前を流れる荒砥川はその山中に源がある。赤城はわたしの母なる山であり、上毛かるたで「裾野は長し 赤城山」とうたわれている。
 遠い時間の向こうからこうして高村光太郎と猪谷六合雄がやってきた。
 眼下には萩原朔太郎の利根川が流れ、あのあたりが大渡橋かと見当をつけることにもなろう。
 きっと、酒と本と双眼鏡を持って出かける山旅になる。

 春が来た。木綿のマフラーが2枚やってきた。四国の今治産でグッドデザイン賞をもらっている。添えられたしゃれた商品案内につくった人たちの思いがこもっている。1枚1,050円。先日、パルコでいいイタリア製の木綿マフラーを見つけたが14,000円もした。国産で十分だし、中国産でないこともうれしい。インドアでもアウトドアでも、頭のてっぺんから足の先まで中国産なのはかんばしくない。
 念のため洗ってもらったら、ほんのすこし色落ちした。
 明日は雨だけど、洗い立ての新しいマフラーをして美術館、ギャラリーめぐりに出かけよう。
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by waimo-dada | 2013-04-14 00:08 | ライフスタイル

ウソたちよ、旅に出なさい!

 快晴、微風。おだやかな一日でした。
 調べものをしていてふと気がつくと午後の3時。日に当たりたくなって、長靴をはいて裏の山に出かけます。

 ザラメ雪の道をしばらくいくと沢の水音が高くなっていました。
 小鳥の姿が目につきます。

 シジュウカラやヤマガラ、アカゲラなどいつもの住民にまじって2mほど先の朽ちた木の枝にはコゲラのつがいが。小さいけれどそこはキツツキ。カカカカ・・・と励んで獲物をすばやくゲット。その飲み込むまでの早いこと、美しい動き。

 と、ウソのつがいが現れました。
 うん? つがいなんかじゃない。うそをつくな。
 頬から喉のあざやかなピンク色で瞬時にウソとわかるのは雄です。仲のいい雄どうし。ま、この時代、そんなつがいがいておかしくはないのですが、鳥の世界まで少子化になっては森がもちません。
 ウソたちよ、嫁を探しに旅に出なさい!

 「クマゲラの丘」まで歩いて丸太の椅子に座れば、左に石狩湾、右に札幌の市街地。
 モイワ三頭山のほうでクマゲラがキョイーンとのんきに鳴いていました。
by waimo-dada | 2013-04-05 00:53 | ライフスタイル

春の気配がします。シマツにしてますか

 チッキひとつで北海道にやってきてまもなく45年になります。
 少しがんばって家ふたつ、墓ふたつ持つプチブルになりましたが、いくらか思うところがあって家や墓地を整理して、15年前にいまの中古低層集合住宅に移り住みました。サイズ的には91㎡÷125㎡=0.728に減少、経済成長の尺度でいえば−27.2%もの下落。
 これにともない事務所兼書斎のサイズは7.64㎡に。いくらはかっても4.6畳で、6畳にはなりません。
 泣く泣く本を処分し、着ないものを生協主催の海外寄付に委ねました。
 もともと母親譲りの始末屋でしたから小さく暮すのは得意ですが、本にはいまも苦しんでいます。

 足と知恵を使って問題の解決に挑みます。探し求めたすき間用家具の本棚は、いつの間にか家人が暮らす居間の一部を侵略しています。広辞苑のとなりは地図帳などを横にして突っ込んでいるため落ちやすいので、無印良品で買ったアクリルの仕切り版で支えています。
 ぬいぐるみの山羊のユキちゃんが占領しているのは集英社の国語辞典。この辞典は漢字辞典を兼ねるすぐれものです。
 なぜユキちゃんががんばっているかといえば、家人の再侵入を防ぐ思いがあるからです。狭い家でどれだけ自分の空間を確保することができるかどうかは、ぬいぐるみさんも再動員する必死さ、懸命さによるのです。

 着るものは買わないのが一番ですね。
 ゆえに、買ったらずーっと着る。穴が開いても着る。
 お気に入りのイッセイミヤケのロングコートは立てた襟を簡単にとめられるボタンが付いているので吹雪にも強くて、かれこれ20年近く着ています。いたんだ裏地は生地を替え、すり切れた袖は短くし、毛玉をとれば着られます。コートに添えたアクアスキュータムのマフラーはロンドンで買ってからそろそろ30年になります。
 で、穴の開いた靴下も、かがんでもらえば立派に使えます。うれしそうにはいて出かけるのを家人はいやがりますが。

 そうはいってもねえ、この豊かな時代。向田邦子さんのエッセイ集『無名仮名人名簿』に登場する、広告の紙で「洟をかむ」戦前のお母さんにはかないません。
 向田さんは「母は、というより当時の日本の女は、もしかしたら、みなあのように節約(しまつ)だったのかも知れない。(後略)」と書いています。

 ともあれシマツに暮して、それを理由に遊ぶ。山の道具を新調する。旅に出る。
 そんな春が近づいています。フフフ・・・。
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by waimo-dada | 2013-03-16 01:25 | ライフスタイル

林間学校に行けますか?(2)

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 わたしは今なぜここにいるのか、長い時間がたってわかることがある。
 なぜ北海道に来た・・・。入学した大学で林学科に進んだのは。地方公務員から銀行系シンクタンクの研究員になり、北海道教育大学の依頼を受けて喜んで「余暇論」を担当したのは。サラリーマンをやめて札幌国際大学観光学部の教員になり、それもやめて上司も部下もいない自営業を選んだのは、なぜか。
 すべてのもとに「林間学校」があったように思う。
 子どものときに林間学校の存在を知ったわたしは、いつか林間学校に行ける身分になってやろうと思うようになっていた。大人になれば林間学校なんて関係なくなるのに。
 林間学校がいつしか豊かな暮らしの象徴に転じていた。
 赤城山の山麓の町を抜け出して遠くに行きたい。きれいな雪が降り積もる土地へ。
 そんな思いが重なったとき、遠くにぼんやり北海道が見えた。あのサロマ湖という茫漠とした湖を抱えて、無造作にオホーツクの海に砂地の海岸線をのばす北海道。ほかはなにも知らない。地図を見ることが大好きだった青少年が北海道に片思いした。そしてやってきた。
 
 父の軍人恩給が学資になった。ありがとう、父さん。
 農家の末息子で職業軍人を選んだ父は息子が旧帝国大学に進学したことを喜んでくれた。だから北海道の林間学校に行きますなんて言えない。ほら、山の道具も本も捨てたでしょ。しっかり学んでくるからね。

 親にウソは言えるのに、いいやそんなふうだから、生きるのがへたで20歳になっていた。
 両毛線の小山で東北線の急行八甲田に乗り継いで青森。青森の駅でなぜ人々が連絡船に向かって走り出すのかわからない。大きな荷物を手に無言で。あれは、戦後を生きるというのはこういうことだったのよと映画のワンシーンのように背中の群れがわたしに教えてくれた、と今になって思う。

 チッキ(*)ひとつで北海道に渡ってきたら、本当に林間学校があった。北海道大学体育会山岳部。
*駅で受け取ると安く済んだ国鉄の手荷物輸送サービス。わたしは布団と電球スタンドだけの包みを学生寮のリヤカーを借りて受け取りに行った。
 体育会のクラブなのにアカデミック・アルパイン・クラブ・(オブ)ホッカイドウ(AACH)と名乗っていて伝統があるらしい。ルーム(部室)は古い木造の文化団体連合会館の奥にあった。建物はクラーク会館と中央ローンと図書館と農学部の間にある。クラ館には食堂と喫茶店がある。教室にはいつでも行くことができるから、行かないでもいい。
 
 石炭ストーブを囲んで先輩たちの話を聞いているだけでも楽しい。まわりは大きなエルムの木々と芝生。これ以上ない遊びの基地、いや林間学校。となりの部室は演劇研究会。その北大演研と糸が紡がれて数十年後には北海道演劇財団や演研出身の劇作家で俳優の斎藤歩さんのサポーターになるのだが、当時はいつもだれかが駆けて叫んでいるという体育会系クラブ。アングラ劇が全盛の時代だった。

 山岳部に入るとすぐに合宿の準備になった。合宿は年に2回、十勝岳連峰で5月連休と冬山山行の入山前にある。
 大学の山岳部やワンダーフォーゲル部では合宿が部活動の中心にあるのが普通だ。が、北大山岳部はちがっていた。合宿する時間なんてもったいないから、廃止して自由な個人山行に当てるべきだ。いいや、合宿はルームに培われた技術と文化を伝承する機会であり、互いを知ることは互いの山行計画を検討するためにも欠かせない。合宿は絶対に必要だ。そんな議論がとびかうクラブだった。

 1960年代末当時、16人にひとりの確率で遭難死亡事故が起きているといわれた。実際、ルームの壁の上部は山で死んだ先輩たちの若い遺影で囲まれていた。
 どんな山登りを目指すか、ルームが経験していないそのルートで予想されることはなにか、問題にどう対処する、そもそもメンバーを安全に街に還す力量がお前にあるのか。議論することはいくらでもあった。
 オールラウンド、プリミティブ&コンプリート。沢登りも岩登りも冬山もやる。なるべく文明の利器に頼らないで。できれば完全に、今風に言うならノーミスで。そんな理想が語られる一方、岩登りだけやるのもよし、小屋に通うだけもよし、と互いの自由を尊重する気風をみんなが大切にしていた。当時、本州の一部の大学山岳部やワンダーフォーゲル部で問題になっていたシゴキはなかった。当然、上級生に命じられて重い荷を担ぐこともなかった。そんなかっこ悪くてクラブ活動の本筋からはずれたことは問題外、という青年たちのクラブだった。

 札幌近郊の森に北大山岳部が管理する山小屋がふたつある。そのひとつが現存する日本最古の洋式の山小屋であるヘルベチアヒュッテで、定山渓の奥山の白樺林のなかに立つ。札幌の藤女子大学や宇都宮のカトリック教会に名を残す建築家マックス・ヒンデルが故郷のスイスを思って近しい仲間とつくった、堅固で愛らしい山小屋である。もうひとつが北海道の雪を愛された秩父宮のご下賜金で建てられた空沼(そらぬま)小屋で、空沼岳中腹の池のほとりに老いたトドマツのようにひっそりと立つ。
 烈風が吹きわたる雪山の稜線ではときおり死のにおいが走る。そんな山の中腹や麓にトドマツやエゾマツが守る針広混交林や白樺の純林がひろがる。若者の身体をやわらかにつつむ山小屋がある。

 どこに行くか、いかに生きるか、すべて自由。自由という幸せできつい選択のなかを若者は生きていた。戦争に行かないでいい時代であったからひとは自由に生き、退き、孤独を受け入れ、傷ついた。ひっそりと死ぬ者もいた。幸福で残酷な青春。
 自由な人間であることと組織の一員であることの間になにがあったか。ルームを離れていった近しい友人たちの生と死に思うことは少なくない。

 入部したときにはただ楽しくてなにも感じなかったが、わたしはこれ以上ない林間学校に入ることができた。
 年に1回、秋の終わりに小樽の銭函峠をこえてヘルベチアヒュッテに行く。ドロノキの大木の下で、みんなで焚き火を囲んでぼうっとしているだけで楽しい。2012年の秋は歩みが遅く、10月も末になって日差しの柔らかい山道をほこほこと歩くことができた。

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by waimo-dada | 2012-11-07 03:27 | ライフスタイル

林間学校に行けますか(1)

 もうじき「高齢者」です。
 わたしの小学校の同級生の半分は、2012年9月末に公式の高齢者となりました。公式に、です。みな、日本国からもう逃げられません。働かないでも食べていけるから。巧妙なやり方で捨てられる可能性はこの先ゼロではないけれど。
 さて。あんなにかわいかった群馬県大胡(おおご)町(現前橋市)大字大胡の木村のタイコちゃんも◯◯◯のイネコちゃんも、生きていればみんなきれいなおばあさん。世の中は本当にそんなことになっているのだろうか。信じられない。

 あの時代、1950年代の後半。「お前たちは揺り籠から墓場まで競争だ」といった教師がいたそうだが、幸いなことにわたしが会った教師はみなのんびりとしていて実直で、そんな理屈を口にするほどバカではなかった。まして田舎生まれのわたしは揺り籠なんて高級品を見たこともないから、リアリティのない言葉を吐く赤シャツ先生などがいたものなら、朝早い教壇に、清楚な青ガエルの一匹も竹籠にいれて進呈していたろう。
 日本国が戦争に負けて10年。1955年秋、今日から完全給食ですと華々しくうたわれて登場した学校給食のスターは、戦勝国アメリカからとどいた豚の餌用スキムミルク。厚紙のドラム缶で運ばれてきた。元占領軍のアメリカ兵から見ればわたしたちは豚の子同然。そんな身分なのにわたしたちはいじめも競争もほぼ関係なく育った。飢えたことはなく、心さみしくもなかった。いつも四季の祭りが身近にあった。親と世間に抱かれて育ててもらった幸せな少年時代。小さな田舎の学校なのに子どもはあふれるようにいて、教師も子どももその日を働き、遊ぶのに精一杯だった。

 そこはオキナワでもヒロシマでもナガサキでもなく、3月10日の大空襲の記憶をとどめるトウキョウでもなかった。戦争のことはほとんど何も知らない。聞かされてもいない。母方の伯母の夫が南方のガダルカナル島で亡くなったとわたしが知るのは先のことだ。子どもたちは古い城下町の名を残す町の路地から小川や田んぼで遊ぶのに忙しく、いじめるヒマも塾に行くヒマもない。そろばん塾はあっても学習塾なんてない。いじめも塾もないうえに戦争に行かないですむのだから、明治維新のあとで日本国に生まれた男子にとって最良の時代、地域のひとつだったといえるかもしれない。

 というふうに振り返ると、なんだか、いい時代、いい田舎だったね。
 そして、目に見えない水平線的な競争心がわたしたちの境遇のなかに、もっというなら時代のなかにあった。みんなでがんばって上に行こう。豊かさというものを手にしようと。フツーにひとしく貧乏だったので、親と子の共同戦線があっさり成立していたのかもしれない。
 問題はそれからだった。子どもたちは期待を口にしない親の期待を背中で感じていた。どの子も、いい学校に進むか、早く独り立ちしなければならないと考えていた。中学を出たら就職するという選択肢がなんの疑問もなくあった。実際、就職する子はいたし、自衛隊の学校に行く子もいた。自衛隊の学校は学費がいらないどころか給料をもらえるので入るのがむずかしいという話だった。

 わたしは新設されてまもない国立の高等工業専門学校(高専)に進んだ。普通高校や大学に行かないで独り立ちできるすばらしい人生コースだと親と周囲は歓迎したが、受験勉強の向こうには海原のような将来が開けていると素朴に考えていたわたしにはいくらか酷な結末、青春のはじまりとなった。相談できる人はどこにもいない。むずかしい学校に進学できたということだけがひとりの少年の自負を支えた。人間ってひとりで生きていくのだな、と初めて実感した。

 学校にいた時代をふりかえれば、ざっとこんなあんばい。
 ここでやっと主題が登場する。いいなあ、林間学校。
 公式に高齢者になるというありがたい年齢になって、いや、そうなったからますます昔のあの日に行くことができたならと思いが強くなるのは、なぜだろう。実現できなかったから、疑似体験でいいからあの日に戻って林間学校の旅に出たいと思うからか。
 日本全国がひとしく貧乏ではないということをうすうす知っていた自分がいた。それを教えてくれたのは林間学校自身であったが、遠い都会から子ども向けの月刊誌を経由して伝わってくる「リンカンガッコウ」というすてきな、つまり大学生になってから知る言葉でいえばプチブル(プチ・ブルジョア=小市民)の匂いのする音を、わたしは好きだった。
  そのとき、わたしは子どもなりにひとりで生きていくと決めたらしい。いつかは郷里を離れ、いい匂いのする方向に歩こうと。
 
by waimo-dada | 2012-10-11 02:32 | ライフスタイル

半径30分の街で暮らす

 わたしはふだん、片道30分の棲息圏に暮らしている。このごろはとくにそう。
 ひと月の半分は出張でね、と以前は忙しさを自慢していたのに、人は変われば変わるもの。歩いて30分の範囲で暮らすことに慣れ親しむと「ガンガン行こうぜ」が「ビスターリ、ビスターリ」となった。藻岩山麓通りをジョギングしながら「ビスターリ、ビスターリ」。
 それですんでいれば何も問題がないのに、ある日悪魔が耳元でささやいた。「ジョギングでキタラなんてどう?」。真冬に体育会系と文化系が結婚するいいアイデアだ。
 それで札響の定期公演に本当に出かけてしまった。ジョギングスタイルで着替えも持たずに。汗かきではないが汗臭くはなかったと断言できないし。アイデアに酔って、またまちがいをしでかした。
 前のまちがいは体育会系同士だから罪は少なかった。北海道が一番寒いときにテニスラケットを背負ってクロスカントリースキーでインドアテニスに出かけよう。われながらいいアイデアに思えた。実際、テニススクールの仲間から「まあすごい」と喝采を浴びたわたしは立派なスポーツマンに成長したような気分。おれの人生はまちがっていなかったのだ。
 が、まちがいをしたことは帰りの夜道ですぐにわかった。ワックスを塗っていないクロカンスキーで上り道を歩き続けるというゴージャスな体験がわたしを待っていた。けれど、自分が罰を受けただけでだれにも迷惑をかけていないという点では「ジョギング札響事件」よりずっとましだった。
 
 そんなことがありまして、責任を取って札響の定期会員をやめました。
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 いまの住まいは都心の大通に徒歩とバスで25分、もう走らないことに決めたキタラに歩いて30分、中央図書館にジョギングで15分。便利なうえにRC造ながら山小舎の感じがするので選んだ。3階建ての中古集合住宅で、三方に木々がある。エゾリスが棲んでいる。ベランダの1m先のモイワボダイジュの枝のうえで上手にクルミの実をかじって開けて、食べる。ときどきこちらを見る。つまり実演付き。そこにわたしが棲んでいる。
 玄関は登山口でもある。藻岩山の北斜面は1921年(大正10年)に国の天然記念物に指定されている。30分も歩けば浅い沢型に50株ほども咲くシラネアオイの園がある。お花畑というには暗く、小規模だが、毎年強い生命力に会うことができる。少しずつだが年々増えている。花の盛りにシラネアオイに出会える人は幸せだ。奥行き30分の街のはずれに縄文時代から続く自然がある。

 藻岩山の麓にひらかれた単純明快なつくりの街。藻岩橋のあたりが豊平川扇状地のかなめなので、札幌は豊平川と藻岩山なしに語ることができない。娘と共同で始めた車で20分ほどのカフェの売りは豊平川扇状地の地下水であり。
 この街は歩いても走っても、どこかだれかの手のひらのうえで暮らしている感じがする。
 そう思って手のひらを開いてみた。手のひらは扇状地に似ていた。
 
 
by waimo-dada | 2012-05-17 12:28 | ライフスタイル