N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

カテゴリ:山と旅( 10 )

秋の京都歩きⅡ

 東福寺の人ごみを脱出して北に向かう。目指すは智積院(ちしゃくいん)と河井寛次郎記念館。
 この時期の京都はコートなしで歩くのにちょうど良い。わたしも連れもパパスの厚手のジャケットにコットンマフラー、スカーフを標準装備。薄いフリースの帽子と薄手の手袋もあるから寒さに対応できるし札幌に戻ったときの心配もない。
 そうしてぷらぷらと歩けば観光ゾーンにない普段着の町家、店屋、通りを見るともなく見ることができるし、街なかの小さな祠にも会える。
 通りに面して明るく開いた智積院の境内は一転、静かなものである。
 長谷川等伯・久蔵親子が制作した国宝の障壁画や利休好みという傑作庭園を前後左右の人的圧力なしにゆるゆると楽しめる。紅葉の名所、スポットといわれるところが観光客を強力に吸引するので、その反作用でアートな寺院や御仏をじっくり鑑賞できるのはじつにありがたい。
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 さて、次の目的、敬愛する陶芸家河井寛次郎さんの記念館はどこだろう。
 少し道に迷ったかなと思ったときに尋ねたご近所の方らしい中年の女性が、近くまでご親切に案内してくださった。
 河井寛次郎記念館は急ぎ旅の人は寄らないほうがよい。寛次郎さんのパワーある作品、ユーモラスな作品、自由自在なアトリエ兼お住まいであったところは、なにを求めるでもなく立ち寄った旅人に優しく微笑むにちがいない。実際、居合わせた数少ない訪問客はどなたももの静かで、記念館になじんでいた。それもこれも運営にたずさわる人々の仕事を含めて、すぐれた文化施設がそなえる力によるものだろう。
 「私どもにとっては、皆さんにこの記念館をご覧いただいたあと、何かの美、何かの感動、何かの驚き、何かのやすらぎを覚えて下されば無上の喜びでございます。河井寛次郎記念館」(同館のリーフレットより)
 
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 夕飯はおばんざいの店と決めていたが読みが甘かった。週の半ばなのに四条河原周辺、高瀬川沿いのこれという店はどこも予約を含めて地元の若い勤め人風のお客さんで満席。高瀬川に面した和食店「高瀬川くりお」でコースものを食す。
 そしてまた歩く。東に針路を取って石塀小路、ライトアップされている高台寺へ。こうなると人気観光コースだから四の五の言わずに夜間も公開している清水寺までぷらぷらと歩く。
 朝から夜まで、安くないウォーキングシューズと特製の中敷きが大いに働いて主人に貢献する一日となった。

 2日目は北の上賀茂神社から南の下鴨神社、西の大徳寺から東の漫殊院界隈。この4つの社寺を公共交通と徒歩でテキトーに結ぶ。
 ハイライトその一は水の道である。上賀茂神社周辺の水路、賀茂川沿いの歩道、飛び石。ぽこぽこと歩くほどに京都の水と川筋が目と足になじんでくる。旅をしているなあーと体が喜び、心がほころんでくる。
 ハイライトその二は大徳寺の大仙院や竜源院、瑞法院という人気の少ない塔頭である。規模は小さいが石庭がいい。楓の紅葉がきれいな髙桐院をついでに観光したが、人ごみを気にしなければそれなりに楽しめる。
 ハイライトその三は予定になかった貴船・鞍馬に向かう叡山電車の「もみじのトンネル」ライトアップ。のんびりと歩いていたら夜になった。そんな観光客に「次もありますわ」とささやいて観光消費の実をあげる京都観光は見事というほかない。
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3日目は筋道を立てて歩くというか王道を行くというか、紅葉で賑わうスポットをかわしながら。
 出発はわたしの定番「法然院」。観光寺ではないが一部の人に人気のあるところだ。今回は幸いにも墓参にいらしていた方から谷崎潤一郎夫妻の墓を教えていただき、訪れることができた。しだれ桜の下に小さな墓石、「寂」と「空」の二基。「寂」は潤一郎・松子夫妻の墓、「空」は松子夫人の妹夫妻の墓だという。
 「森林太郎墓」と実直に刻まれた森鴎外の津和野の墓を剛とするなら、谷崎の京都の墓は柔。ともにわが国が誇る文人の墓である。
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 哲学の道をたどり、特別公開していた安楽寺に寄り、僧侶から法然ゆかりの寺の由来を聞く。一帯は静かである。ときが静かに流れていく。拝観料が惜しくない。
 そこから紅葉で賑わう永観堂の脇をすり抜け、南禅寺の水路閣から琵琶湖疎水に誘われるように町に下りていった。国立近代美術館で豪勢な「上村松園展」をゆるゆると観て、今戒光明寺を訪ねれば今回の旅も終わりに近づく。
 仕上げに祇園の一角にある民営の何必館(かひつかん)・京都現代美術館でフランスの写真家「ウイリー・ロニス展」を鑑賞し、近くの洒落た店で婦女子へのお土産を買えば旅は終わるはずだった。
 が、その後、西本願寺を訪ねて一休みした。なぜそうしたのか。頭のなかの地図と足がそうしたのである。たぶん、次回は旅のしまいに東本願寺を訪ねるだろう。

写真注)以下は順に、哲学の道、安楽寺境内、何必館の光庭、白川の一本橋(行者橋) 
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 大学山岳部先輩のKさんからメールをいただいた。
 「通信拝見。紅葉の京都など行くものか、と思いながらも、どこがお勧めだろうかなどと考えています。案外いいのは京都御所、広大で少々人が多くても目立たない。この周辺には静かな神社や同志社の古い建物や新島譲ゆかりの地など(今は避けた方が賢明)があります。八重さんが最初に勤めた「女紅場(にょこうば)」というのは「府立第一高女」の前身、我が母校の鴨沂(おうき)高校の前身でした。ここから北上して鴨川の河原を北山を眺めながら、下賀茂・上賀茂神社をたどるのもいいと思います(かなり歩きます)。また銀閣寺の裏山から大文字山に登って滋賀の宮、三井寺にぬけるコースもいい。京に田舎ありです。
 いずれも50年前に私が親しんだノスタルジックコースです。気力体力が回復したら、ご一報ください。京都の穴場をお教えします。でも半世紀、京都はもはや他人の街なので、今も良いかどうか保証できません。」

 学生時代に京都御所近くのKさんの実家に泊めていただいたことがある。簡素ですてきなお家だった。そのときもずいぶんと歩いた。街なかでしこたま飲んでから円山公園のあたりを早足に案内されて息が切れた。
 Kさんのメールにある「銀閣寺の裏山から滋賀の宮にぬけるコース」は知らないし、修学院離宮や泉涌寺(せんにゅうじ)など、知識はあっても歩いたことのないところがまだまだある。
 山越えもしたいし、町家の宿にも泊まりたいなあ、となると次回の京都は初夏だろうか。
by waimo-dada | 2013-10-29 23:09 | 山と旅

秋の京都歩きⅠ  

  ずーっと病院のベッドに横たわっていたからですね。おれの人生ってなんだったんだろう。ふと振り返ることがありました。“徒手空拳”。そんな言葉がとっさに浮かびました。そうは思いたくないのですが、おおむね徒手空拳の人生であったでしょう。
 力を込めてやってみたこともありますが、たいしたことはありません。社会が必要としていないのに意味があるものだと思い込んでしていたことどもが、いまでは山を走り下る沢水のしずくのように思われます。
 ゆえに人は旅に出るし祭りを必要とする、と考えたのも当然かもしれません。人生の楽しみは旅と祭り、わたしの場合は「お出かけ」と「にぎやかで晴れやかな集まり」にきわまると遅まきながら気づいたのです。この考えはもちろん、家や職など人が暮らしていくための必要条件を満たしたのち、その先にある必要に関してのことですが。

 そう考えると、とても合点のいく行動が身近にあります。
 わたしが所属した北大の山岳部では毎年、秋の終わりに札幌近郊にあるヘルベチアヒュッテという山小屋でお祭りをします。祭りといっても三々五々集まって焚き火を囲んで食べたり歌ったりするだけのことですが、その祭りにわざわざ小樽海岸の銭函駅から峠道を歩いてくるOBがいます。峠道は華やかな展望や鮮やかな紅葉に会えるでもなく、人の手が入った二次林や伐採跡地をたどるだけのことなのですが、7、8人の中高年がうれしそうに歩きます。わたしもそのひとり。なぜかはよくわかりません。秋の終わりの小さな旅と祭り。毎年、それを人生の楽しみのひとつにしていることだけは事実です。

 2013年秋、お出かけ大好き、お祭り大好きなわたしが病院にいます。ヒュッテの祭りにも行けません。それでも旅には出たいので、家人に旅のファイルと地図帳を持って来てもらいました。少し古い旅の記録を振り返って思い出に浸り、何かを再発見をしながら、次はどこをどう歩こうかと地図帳の上を旅する。つまり旅の記憶と地図帳を駆使して過去、現在、未来を行き来する自由なひとり旅。そんな旅の今回のオリジナルは京都です。

 秋の京都。みんなが好きな定番の旅先。わたしの町のすっかり少なくなった書店の店頭にも秋口になれば京都特集の雑誌が並びます。
 2010年の初秋、本棚のガイドブックや雑誌をめくり、切り取ったりメモをしたりしながら大まかな計画を立てました。テーマは、のんびりとアートなお寺を巡る。川のほとりと町を歩き、おばんざいを食べる。
 ま、こんなところかなと思ってさっそく足と宿を確保しましたが、見込みが甘かったことがあれば予想以上にはかどったこともありました。それはおいおい・・・。


 初日は朝8時に新千歳空港を発ち、伊丹空港から大山崎の山荘美術館へ。
 平日ながら11月下旬、小さな館に人がひしめいている。東京都町田市にある白洲次郎・正子夫妻の武相荘(ぶあいそう)もそうだが、書物やマスコミの紹介からイメージする館というのは立派である。しかし訪ねてみるとお屋敷は思ったより小さい。というより文人の好む私邸というのはたいがいが小振りで、そこが美術館や歴史的建造物として一般に公開され、わたしたち物見高い庶民が押し寄せるので手狭になっているだけのことだ。
 ほかの人の邪魔にならないよう静かに邸内を見学して庭に出てひと休み。鎌倉の文学館なども同じお仲間だが小振りの館の多くは庭がいい。人々の多くは急ぎ足で館を去り、庭をのんびり眺め歩く人は少ない。旅がおいしくなるかどうかの分かれ目はそこにある。多くの人が通る動線からほんのすこし横にはずれてぼーっとする。茶屋がなければマイボトルでお茶にする。流れに乗らないだけで自由になれる。
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 京都駅近くのホテルにチェックインして午後は東福寺へ。
 見込みちがいというか事情知らずのお上りさんは、JR奈良線東福寺駅から続く大変な人の波に巻き込まれてしまった。わたしたちはただ現代の庭師が造作した東福寺の方丈(僧侶の住所、応接間だったという)のモダンな庭を見たいのに、いったいこれは・・・。
 いよいよ東福寺に入るというところでわかった。紅葉の名所があるのだ。わかったところで学んだ。よーし、今回の京都は紅葉の名所をパスしよう。みんなが集まる紅葉の京都のそのまた人気筋、観光の主動線をはずして歩いてやろう。それでもきっときれいな紅葉に会えるはずだから。
 重森三玲(しげもりみれい)が1939年に完成させた「八相の庭」、なかでもくっきりした敷石の市松模様がまばらになって消えていく北庭は見事。
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by waimo-dada | 2013-10-26 14:04 | 山と旅

火山のふもとをめぐる旅

 一編の小説を読みはじめて、ふと、読んでいる時間とは別の時間が流れはじめることがある。松家仁之(まついえまさし)著『火山のふもとで』(2012.9 新潮社)を読みはじめてまもなく、その山の麓で旅をしてきたことどもを思い出していた。
 その思い出の時間が本を読みながらとぎれとぎれに流れ出し、今と過去が重なりあって体のなかを生きはじめた。わたしもまた生きてきたのか、と我が身がこの世に連なるようでうれしくなった。 

 この本には戦後に生まれてごく普通に生きてきたわたしのような人間でさえ、だれかに話しかけたくなるような、愛惜の念を生む何かがある。
 おそらく100人が読めば100編の書評が綴られる。語りはじめればとまらない、幾重にもいとおしい感情を愛惜というなら、この小説を語るキーワードはそれをおいてほかにない。
 
 「七月末から九月半ばまでの、ひと夏の時間。それが小説の展開にしたがって、ゆったりと、しかし緊密に出現する。私たちはその時間を愛惜するのだが、小説を読了した後の気分としてではなく、読みながら一刻一日が過ぎてゆくのを愛惜しているのに気づく。」(湯川豊の書評。2012.11.18、毎日新聞)。
 この本にふれた読者が持つ代表的な愛惜であろう。わたしもそのひとりだ。読み終わりたくない・・・、そんな感情を生む、近年まれに見る小説となった。

 標高2,568mの活火山、浅間山の山麓は火山礫と火山灰の大地である。
 日本を代表する避暑地となった軽井沢の近代は、緑で覆われていない。疎林が目立つ、乾いた火山の麓にすぎなかった。今のように深い緑陰をたたえる夏を迎えるようになるには人の手が必要であった。荒れ地にも育つカラマツなどの分厚い植林の時間を経て今の軽井沢が築かれた。
 土地はやせているが、豪雪、豪雨に見舞われる地域ではなかったことが幸いした。雪解けや大雨で浸食されることが少なかった。
 なにより空気が少し薄い。その分、気温が低くなる。単純計算で低地の東京より6℃も低い(軽井沢の標高1,000m×−0.6℃/100m=−6℃)気象条件が、東アジアのねっとりとした夏の大気にうんざりしていた宣教師たちの気を引いた。それからの発展物語はよく知られている。
 避暑のついでに商いをしたらどうかと新しいビジネスの可能性に気がついた銀座の名店が次々に店を出して、今の旧軽井沢銀座の原型ができた。
 というような話を札幌の大学で講義したことがあるが、学生はきょとんとしていた。北海道で生まれ育った若者には避暑地という言葉に連想がいかない、たどりつかない。東京のねっとりとした夏の空気をたっぷり吸わせてから軽井沢に引っぱり、その天国性を体験させるべきであったと今にして思う。授業のへたくそなことは脇において。
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 さて、軽井沢の歴史だけが浅間山山麓の歴史だけではないことに、多くの人は無頓着である。東京の人々が長いあいだ食している「高原キャベツ」は、浅間山の火山灰大地に群馬県嬬恋村の農民が長いあいだ闘うように働きかけてできた、奇跡の野菜である。そんな“闘うキャベツ”が相場の乱高下で苦労していた時期に同じように苦労していたのが東京の生活協同組合である。たくさんできれば豊作貧乏、少なければ価格が沸騰して手に入らない。そんな生産者と消費者がたがいの利益を考えて価格の維持と安定供給に関する協定ができた。乾いた軽井沢の大地に植林したように、人々は野菜の生産と消費に関するビジネスモデルを開発した。この国が平和だからなった話ではある。

 避暑地の歴史もまた軽井沢にとどまるものではない。浅間山麓の北側は群馬県に属する。そこに北軽井沢という地名が登場するのはいつだろうか。
 木下恵介監督の名作「カルメン故郷に帰る」が公開されたのは1951年(昭和26年)である。映画の冒頭、おもちゃのような草軽電車が東京でストリッパーをしているカルメンたち(高峰秀子ら)を北軽井沢に運んで来る。草津と軽井沢をつないでいたローカル線である。
 草軽電気鉄道は橋やトンネルなど金のかかる工法を極力避けて、地形に忠実に上り下りする線路を敷いた。くねくね線路をのろのろ走る、今風にいえばエコロジーな路線となった。ともあれ、草軽電車がロケ隊の足にもなって映画の制作が進み、当時の北軽井沢を立派な総天然色で映像に残した。

 しかし、そこに避暑地らしい風景は登場しない。避暑地の物語ではないからである。
 これはまったくの憶測だが、かりに木下監督が避暑地と別荘を映像に取り込もうとしても簡単にはいかなかっただろう。北軽井沢の別荘地開発はすこぶる特異なかたち、大学人を中心とした知識人共同の「大学村」というかたちで進んだからである。
 1928年(昭和3年)に「法政大学村住宅組合」が結成されて大学村の開発が始まり、現在に至っている。80年以上のときが流れている。
 今も昔のまま、という。乱開発が当たり前のように思われるこの国のリゾート開発の歴史でこれは特筆されなければならないことに属する。

 小説『火山のふもとで』は、北軽井沢の大学村にある建築家の別荘を中心に建築家たちの物語が進む。
 大きなコンペをめぐる本格的な建築小説である。と同時に、頻繁に登場する旧軽井沢や浅間山南麓の追分らしき土地を往年の名車で縦横に駆け回る、ドライブ小説でもある。愛と別れもあるという点では恋愛小説。知的で快適で、愛も哀しみもあるとなれば、本邦には稀な本格的リゾート小説といって差し支えないだろう。

 わたしが父の仕事に便乗して照月湖(しょうげつこ)の近くの開拓農家に宿を借りてもらい、北軽井沢の周辺をさまよったのは小学5年生の夏だったか。母方の祖母の隔世遺伝で“ですっぱぎ”(北関東の方言で「お出かけ好き」)に生まれたわたしは、近くに遠くに出かけることが大好きだった。
 北軽井沢ではひとりで草軽電車に乗ったが1枚の写真も残っていない。
 照月湖がボートの客でにぎわっていたこと、畔(ほとり)にあった「高原ホテル」の階段に踊り場があったこと、やさしげな支配人がいたことはなぜか覚えている。
 それは父と母と妹がいた時代。人にとってかけがえのない第一の家族がいつかいなくなるなどとは思いもしなかったころの話である。

 数年前の秋に草津から軽井沢まで旅をした。火山のふもとを妻とドライブし、車を止めて歩きながら少し考えた。
 人が生きる時間と場所についてぼんやりと考えていた。
 そこはわたしが居着いた北海道の向こうなのに、すこぶる近い土地であった。
 北海道の秋の分厚い葉っぱの匂いの向こうには、わたしの好きな北軽井沢や照月湖がいつもひっそりとあった。

 しかし、こうして思い出の地に立つと、高原ホテルはどのあたりにあったのか。おぼろな記憶に残る池の畔は思いのほか小さな土地だった。
 跡形すら消した時間の太い流れにわたしは言葉を喪っていた。照月湖の美しいにぎわいは、遠くなる家族の思い出とともに昭和のときの彼方に飛び去り、わずかな手がかりを見ることも聞くこともなかった。
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by waimo-dada | 2013-07-28 22:39 | 山と旅

岩遊び、歴史探訪、船遊び

 北海道らしい夏が続きます。そうなると体とココロが夏になりたくて、小樽赤岩(あかいわ)で岩遊びをしました。大学山岳部以来の3人が登ったのは中赤岩の2ピッチ。乾いた空気のなか、きれいな海を下に見ながら全身と気力を使うと、体とココロがだんだんハイになっていきます。登っているときはもちろんですが、仲間を上で確保しているときも気が入ります。
 「ザイル張って!」
 「ザイルダウン!」
 「ザイルアップ!」
 “安全第一と心のゆくまま”をあんばいしながら昼に切り上げ、テーブル岩稜でランチ。この日の小樽の最高気温は24.1℃でした。

 快適な自然歩道を祝津に降りて「茨木家中出張(なかでばり)番屋」を見学。市民ガイドさんが親切に案内してくださいました。風格あふれるモッコがありました。
 マリーナ食堂でホタテとツブを注文してビールで乾杯。宴会1回戦は午後3時。

 ゆるゆると防波堤の先に移動して観光船に。小樽港第3ふ頭までの数十分、海を渡ります。海水に手が届くような小さな船で海を行くのです。なんということはないのにうれしくなります。いつも隣町からの小さい旅なのに、ありがとう小樽。

 札幌の宴会に時間があったので大通のビアガーデンで乾杯。宴会2回戦は午後5時。
 宴会の本番、山仲間が集まる「つる」に行けば、旧知のニセコの雪崩対策リーダーS谷さんや80歳某のエベレスト登山を現地でサポートした国際山岳医のO城さんなども現れ、ココロの夏度が高まります。と、今日の宴会は3回戦となりました。

 ただゆるゆると遊んだのに、ふかーく夏に染まりました。
 あしたも夏。何して遊びましょう。
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by waimo-dada | 2013-07-20 23:06 | 山と旅

東京は歩けば神社

 夏は祭り。祭りの主役は神社の神様。人間さまではない。
 東京にかぎらず町を歩くのが好きで、あちこち歩いて来たなかで、東京は別格の神社の町である。京都の、辻々の祠まであるのは西の別格というべきで、東京は東の別格ながら開発の圧力によく堪えてきた、という点で一種の凄みがある。同様なことは京都にもあったのだろうが、東京は大空襲の嵐を受けてのち再建する、再開発にあわせてモダンな神社を建設するといった、反圧力とか神社力といいたいものを見せつけるところが偉い。偉いなんていったら神様に怒られそうだが、神様の偉さを知っている江戸・東京の民が偉い。

 そのようなことをだんだん理解できるようになると、町歩きと神社との出会いがますます好きになる。
 神社の話をして怒る人はいないので、町で会った人に話しかけるきっかけにもなる。旅の人間にとってありがたい存在である。先日も、根津美術館を訪ねた帰りに寄った青山のイッセイ・ミヤケ(フォー・メン)の店で係のお姉さんと次の冬のオーバーコートの話をしてから真向かいにあるお稲荷さんの話になったおり、瞬間だがお爺さんとお婆さんがしみじみと語るようなあんばいがして楽しかった。
 「ずいぶん前からあるんです・・・」
 「ですねえ・・・」
 最先端のモードと街角のお稲荷さんがつながる地下水の水みちは、考える以上に太いのであった。

 最先端の建築と神社の関係もおもしろい。
 モダン神社の代表格である神楽坂の赤城神社は隈研吾の手になる。わたしの好きな根津美術館の設計者である。先日の根津美術館では前回訪問時の反省からジックリ歩くぞモードにしていたので、庭園の奥まで丹念に歩いた。そうしたら菅原さんが祀られていた。美術を愛する根津さんは学問学術もまた大切に考えていた。
 そんな奥行きのある美術館のアプローチに隈さんは竹林を配した。忙しい訪問者を訪なう客に変える、この国の伝統的な作庭の技法が美しい。町の騒々しい圧力をやんわりと押さえつけ、人の歩みを美術館モードに転換させる。ゆったりとわくわくが数秒でできあがる。
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 で、神楽坂の赤城神社の話。なんで神楽坂にあるのか。赤城神社は赤城山の山麓でしょ。かかる反応は神社に関する基本的認識が欠けているゆえに生じる。そもそも偉い神社は偉いのである。群馬県勢多郡宮城村(現前橋市)におわす赤城神社の神様のありがたいことに感銘した江戸の民が神楽坂に神様をお招きした。自然な話ではないか。そこにはわたしが生まれ育った勢多郡大胡(おおご)町を基盤とする豪族大胡氏が関わるのだが、神楽坂の赤城神社のサイトから縁起をご覧いただくことにして省く。

 と、勢いで希望的観測を書いたが、サイトの「御由緒」によると、「正安2年(1300年)、後伏見天皇の創祀に際して、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まり」となっている。しかし、大胡さんが南関東に移住する際にお連れ申しあげたというのが本当だとしても、お連れしようと決断した背景には赤城神社の祭神に対する並々ならぬ思いがあるわけで、やはり赤城神社の神様は偉いのである。いまは郷里を遠くはなれて北海道に住むが、本家筋に地縁でつながるわたしがかように断じることを、赤城神社の神様はきっとお許しになるにちがいない。
 神楽坂の赤城神社にはカフェもある。東京でもっともクールな神社のひとつである。

 東京は、歩けば神社がある。
 東京都写真美術館を訪ねた足で駅前を歩き、厚岸のカキとタコのガーリックライスを喰って店の外に出たら、すぐ近くに恵比寿神社があった。小振りながら鎮守の森つきで。なんともありがたいことである。小さなお子さんを連れたお母さんがお参りにきていた。
 また、銀座のど真ん中の資生堂裏の路地をたどればお稲荷さんを祀る祠がある。居具合がまことに見事であるのは、近隣の民のささやかな信仰をずっと集めてきたからだ。それもうれしくて、そっと手を合わせた。
 そんな町歩きがこれからも続く。
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by waimo-dada | 2013-07-13 00:53 | 山と旅

本谷から芦別岳へ

 団塊世代のわたしの周辺では「元気なうちに歩きたい山」の話をすることが多くなりました。
「登り残した山」も気になります。ゴールデンウィークの前半に出かけた道北のピッシリ山もそのひとつでしたが、長い林道を歩くところからきつかったです。人生を生きようとするならすこし急ぎなさい。甘くないわよ。そんなメッセージを聞いたような気がします。
 例年より雪が多く長かった冬のせいで連休気分の陽気な山になりません。暗い冬のトンネルの出口でウロウロしているような山旅になるとは思いもしませんでした。なにもかもが冷たく湿気っているのでみんなが大好きな焚き火が燃え出すまで苦労しました(道北の山についてはまた別の機会に)。

 遅くやってきた初夏が歩みを速めたのはその年の季節の結末に辻褄をあわせるためでしょう。
 6月上旬に陽の光がまぶしい芦別岳に行ってきました。夏のおわりに予定するわたしの劔岳の準備山行をかねて、頂上から鋭角的なラインを描いて落ちる第1稜を旧い山の友のTと登る計画です。
 36年ぶりの山。きつい高巻もある沢沿いの道にしごかれてようやくたどり着くと、明るく開いた河畔林に古びた石積みの小屋がそっと現れます。ユーフレ小屋です。河原で焚き火をしました。河原も流木も乾いているので簡単に火がつきました。
 山小屋好きのわたしはのんびりと滞在しながら、若いときのように1稜だけでなく夫婦岩なども登れたらとふと思うこともありましたが、現実はきびしいものになりました。
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 翌朝4時すぎに小屋を出発して9時に登攀を開始。先行パーティーがいたこともあって本谷側の上部から慎重に登路を求め、安全第一に10数ピッチ。「ノーザイルでタカタカ登れるさ」というのは昔のことでした。
 念のため担いでいったハンマー、ハーケン、カラビナの三つ道具とシュリンゲが大活躍。確保のために岩にハーケンを打ち込むなんて想定外でしたが、バランスが悪くなっている体を高みに持ち上げるには安心材料が不可欠でした。心に刻むのは落ちないこと、無理をしないこと、ひるまないこと・・・。これ以上ない天気が味方をしてくれました。
 ザイルのトップを交代しながら3時間近くを要して頂上にたどり着きました。ひ弱なわたしはバテバテ。本谷の雪渓を一気に下るはずのグリセードもくたびれるのでピッケルに体を預けて休み休みです。
 ユーフレ小屋に戻って大休止して共同装備を担ぎ、きびしい沢沿いの道をなんとか歩き通し、無事下山しました。

 山は全身を使って登り降りするものだと痛感しました。体幹、バランス、すべてが確実に劣化しています。老化とはいいません。劣化です。長い間の経験で鍛えたルートファィンディングの力が筋肉力とは無縁に残っていたことが救いでした。

 登攀パートナーのTがヤマレコに記録をアップしましたので興味ある方はどうぞ。友がいてなしえた60代の山登りでした。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-309005.html

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by waimo-dada | 2013-06-12 22:50 | 山と旅

山から帰ってきたスプーン

 山から帰って道具を片付けていたら愛用の先割れスプーンがないことに気づいた。
 灰色の脳細胞を叱咤激励して記憶の底をのぞくと、白銀荘での朝食のあと、仲間が食器を洗う風景がとなりに現れた。そのときわたしは大鍋を洗っていた。
 わたしたちが定宿とする十勝岳連峰中腹の白銀荘は公営の自炊道具が完備した(箸だけは持参ということになっている)、すこぶる快適なスキーロッジ兼温泉保養施設である。食事は提供されないので泊まり客は思い思いに料理を楽しんで、きちんと片付けをして帰る。もちろん、わたしたちもそうした。勘案するに、わたしのsnow peakブランドのチタン製先割れスプーンは仲間の手で洗われてしかるべき箇所、すなわちスプーンの引き出しに仕舞われた。

 子細を断定して白銀荘にお願いのFAXをした。
 こういう場合は電話でもなくメールでもなく、手紙でもなく、FAXがいい。FAXにはそれなりの出番というものがある。アナログの固まりである人間にとって、もっとも実用な受信手段なのである。受信機がなって届く。すぐ読むことができ、メモしたりコピーしたりする手間もかからない。
 その2日後、白い紙にくるまれてスプーンが帰ってきた。
 スプーンをくるむ人の手が見えるようであった。ありがたいことである。

 同じようなことが数年前の八ヶ岳であった。
 温泉に入り、うまいソバをいただいた稲子湯から小海の駅まで町営のバスに乗った。あとでわかったのだが、そのバスにsnow peakの折り畳み傘を忘れた(注.snow peakブランドの山道具はおおむねそういう運命にある)。
 このときはどこで忘れたかアタリをつける電話から始めた。店もバスの事務所もJRの駅もきちんと対応してくれた。傘は返ってきた。

 この国に生まれてよかった思うときがある。きちんと働く人々がいる国だと思うことがある。
 しかし、そのことをよその人に言ってはならない。自慢そうに言ってはならない。
 暮すとはそういうものである。人生のどこに、ありがたいと感謝してそれぞれが暮らす町に帰る以上のことがあるだろうか。こんなささやかな喜びがどれだけ生きる力となることか。思えば、涙腺がゆるむ。
 岳父の形見の生真面目な万年筆でみじかい礼状を書いた。送料分の切手を添えて。
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by waimo-dada | 2013-05-03 12:46 | 山と旅

流れよ、北へ

 ふと気がつくと、2012年は津軽海峡の南に一度も行かなかった。1968年に北海道に渡ってきたから44年になるが、道外に仕事も私的な用事もなく、北海道のなかだけですごした。では北海道を忙しく旅をしたかといえばそんなことはない。娘といっしょに始めた不景気なカフェをなんとかしなければと始末に追われたが、これも現役バリバリの時代とくらべれば忙しくはない。心の身動きが取れないというか、だれからも制約を受けていないのにあまり自由がきかない。好き勝手にできない。なんだか神妙にしていた。自由自在に「ですっぱぎ」の本領を発揮しない年となった。
 ですっぱぎというのは群馬や茨城など北関東の方言で外出好きという意味。わたしは母方の祖母から隔世遺伝でこの個人的資質を引き継ぎ、大いに発展させてきた。いうまでもなく北海道に渡ってきたのにもこの特質が働いている。なので、ですっぱぎが外出や遠出をやめて陽の当たる縁側で猫といっしょにうたた寝をしている図は似合わない。それが、ほとんど旅に出なかった。日高や大雪の山は別にして旅行らしいものといえば秋に天塩川のほとりを巡ったくらいだった。

 音威子府(オトイネップ)の先、筬島(オサシマ)という砂澤ビッキの美術館のある土地を訪ねた。不景気なカフェを店仕舞いでき、ですっぱぎが戻ってきた。
 音威子府は遠い。長く流れる天塩川のわきを右に左に曲がりながら北に流れていく。ほおっておけば川にたぐられて北を向き、川のように流れていく旅になる。そこは札幌などで考える以上に深いアイヌモシリ、人間の大地である。
 考えた。あちこちに寄り道してから天塩川の水系に入ることにしよう。旅全体を右に左にうろつくようにしてしまえば遠いことも長いこともそれほど気になるまい、と。

 寄り道のはじめは上富良野町千望峠のフットパス。小高い丘の道から新雪の十勝岳連峰を見て歩く。考えただけでも気持ちのよい旅の始まりになるはずだった。が、旅もまた人生の一部分にすぎないと教えられるのが常だ。わたしの大好きな十勝岳連峰はその裾野を見せるだけで、どんよりと曇った空の下、収穫作業を終えようとしているビート畑の脇をしみじみと歩くことになった。 
 記憶に残るのは上富良野の町を見おろす松の木の下。馬頭観音の塚があった。開拓のしるしである。
 次に来るとしたら山に雪が残るころだろうか。
 札幌の藻岩山麓自宅発9:30、千望峠発12:15〜着14:45。全9.3km。(参考資料)「フットパスベストコース北海道Ⅰ」(ダイヤモンド社、2010)

 上富良野から美瑛を経て、東川町ユコマンベツの定宿ロッジ・ヌタプカウシペ。別荘代わりにしている常連さんが多い小さな山の宿である。簡素な温泉・食事の良さ、オーナー夫妻との楽しい会話の替えがたさは、泊まってみないとわからない。先を急がない、旅する人たちの宿である。
 その晩はオーナー夫妻と近しい店と人の話になった。軽井沢のカフェ「離山房(りざんぼう)」、札幌のおでん「一平(いっぺい)」、そして、ここヌタプにも寄った砂澤ビッキの話。わたしは明日ビッキを訪ねる。そんな旅の先にジョン・レノンが好んだ離山房が、たぶんある。
 わたしが愛した眼鏡のフレームのひとつがジョン・レノン・モデル。同じ時代を生きているから昨日知ったあなたとまだ知らないあなたを訪ねる。急いでなんかいないのに道の石どもにカツンとつまづきながら。

 それでも年をとるのは悪くないと思えるときがある。記憶の奥に散らばっていた物事が軽く引きつけあって細いロープのようになる。意味がつながる。錯覚にすぎないのかもしれないが、生きてきたことがむだではなかったらしいね、と安心貯蓄銀行から通知があった気分。
 旅に出る前、わたしは白老の町の道の奥に来ていた。林と農地が入り混じる、なんとも名づけようのない不安な道の奥に、廃校になったところを美術家たちが利用して、年に1回、「飛生(とびう)芸術祭」というアートイベントをしていた。目が痛くなるような小さな字でわからないことがびっしり表現してあるリーフレットに、ひとつだけはっきりとわかることが書いてあった。マレウレウとOKIがやってくる。これは行かなくちゃ。
 トンコリを抱いた世界の渡り鳥OKIは砂澤ビッキの息子でもある。音楽と立ち姿がまことにカッコいい。わたしのなかではメジャーな存在である。もっと売れていい。
 時間は前後するが、探していた織田(おりた)ステノさんのカムイユカラ(*)のテープを札幌学院大学の売店で入手できた。その足で新さっぽろギャラリーで開催していた東川町特別作家賞受賞者、宇井眞紀子さんの写真展「アイヌ、風の肖像」を観ることもできた。赤信号で止まっているばかりのような人生にもいい風が吹くことがある。 *「ユカラ」の「ラ」は小さく発音する。

 織田ステノさんのカムイユカラは泣ける。クト(**)ンク(**)トン、クトンクトン(同)というリズムにふれると、自然と涙で目があったかくなる。そのリズムはこの人間の大地に普通にあったにちがいない。そう思うと悔しい。あったかい涙にせつない涙がまじる。もうひとりの人間(和人たち)のしてきたことがほんとうに悔しい。
 わたしがステノさんのユカラを大学の集会室で聴いたときは風邪を引いているが気分がいいのでやります、ということだったが、いまでは奇跡のように思える。1988年9月10日の小さなライブだった。
 織田ステノさんは1994年に亡くなった。
 わたしは織田ステノさん、好きだった。母方の祖母に似ていた。
   **小さい「ウ」の発音が入る。

 旅は鉄道のレールのようにはつながらないが、なにかの折に風と水でつながる。そして低い分水嶺の塩狩峠を越えて上川地方の北部に入る。
 天塩川は支流を集めて北に流れる。流域は北に傾いている。北を向いている。南に流れる石狩川とのちがいはここに発する。
 人は語らないが北海道の心性は天塩川の流域にあるのではないか。ふとそう思うことがある。より北海道らしいといわれる道東のような劇的要素をもたないのに。スター選手を持たない地味なチームゆえに見逃される、いいようのない特性、土地の底からひっそりと立ちのぼる気配のようなものにわたしはひかれる。

 たくぎん総合研究所というシンクタンクに在籍したころに「上川北部地域」の広域観光計画をつくる仕事に関係した。北海道上川支庁と市町村の担当者に同行して地域を回り、助言指導するという仕事である。この仕事はふたつの意味で並の請負仕事ではなかった。
 まず、丸投げを拒否して「みんなでつくりましょう」と言いつのった。かわいくない業者である。
 次に、これはかなり本質をついたつもりだが、並の観光計画とすることを避けようとした。それにはいささか考えがあった。北海道にひとつくらい観光地にならない地域があっていいのでは。いや、そんな地域があるべきだ、とわたしは本気に考えた。脱観光! 並の観光地と頭を並べることがむずかしいのであれば、いっそのこと観光地にならないことを選択したらどうか。そこに並の観光地とは次元のちがった地域発信の可能性がありはしないか。
 (続く)

 
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by waimo-dada | 2012-12-31 20:40 | 山と旅

時代はキャンプ場に運命をもたらす

 こんなタイトル、詩人堀川正美(*)の旧いファンからおしかりを受けそうだが、キャンプ場にだって運命はやってくる。向こうからこちらから。それも、のどかなかたちで。

 8月の終わりに40年来の旧い仲間と日高の山を歩いた。男10名。平均年齢は60代なかば、遠くは兵庫、山口から。人生の残された時間に少し敏感になった連中のささやかな冒険と大学山岳部同窓会の旅。
 この山旅は街で過労死したふたりの男を追悼することを目的に、前半を北日高、後半を大雪山系のトムラウシ山に当てて計画された。それぞれ過去に、山の頂き近くに散骨している。その地を再訪する旅でもある。沢を歩きカールに泊まる山旅の前半に参加したわたしにとって、キャンプ場の一夜は懸命に歩いたことに祝杯をあげる打ち上げのパーティーに等しく、明日のことを考えずにぼーっとしていられるぜいたくな時間となった。
 後半の日程に参加する3名が札幌からやってきてジンギスカンパーティーが始まった。

  「日高沙流川(さるがわ)オートキャンプ場」という。日高山脈の西側に当たる日高地方はサラブレットが駆け抜ける牧場の景観が有名だが、このキャンプ場がある一帯は山が近くに迫っていて開放感にやや乏しい。ところが近づくに連れて印象が変わった。ゆったりとしたつくりに皆が感心した。
 あまり期待していなかったところがすてきであったとき、いい時間になるね、と期待を新たにする。8月下旬の週末という、夏休みはこれで終わりだからしっかり準備して遊びにきた、といわんばかりの家族客が、ゆったりといい顔をしてすごしている。それだけでもこのキャンプ場が成功していることがわかる。広い芝生のテントサイトと計画的に残された自然林。バンガローも密に配置されていない。グループのざわめきが互いに気にならない。キャンプ場特有のストレスがないキャンプ場である。サワグルミの木がまっすぐに伸びて、夏が居残る空に枝を広げていた。
 
 しかし、こののどかさは企てだけでは成立しない。人の時間の流れが一方にあるだろう。
 平和で、相対的に裕福で、心配がない。そんな社会的かつ個人的な好条件がそろえば時間はゆったりと流れるようになる。まして、ここには3・11はない。条件に恵まれた人々が今このキャンプ場にいる。見える範囲の人々はお子さんのいる家族とその仲間。つまり、わたしたちの子と孫の世代。キャンプライフに慣れ親しんでいる。日常のひとつにしている。
 かれらがわたしたち団塊の世代と決定的にちがうのは、このようにキャンプライフがなにも特別なものでなく普通になったことだ。が、このことを理解してもらうのはけっこう大変だ。キャンプ用品がよくなったとか、荷物をいっぱい積める4輪駆動のマイカーを買えるようになったとかいってもわかってもらえない。時代が成熟してきた。そう思い、話すほかない。

 そしてわたしたちといえば、新鮮だが苦しみ多い日々に会うことは、もうない。悲劇がとつぜん向こうからやってこないかぎりは。
 夜おそく、自分を使い果たそうなどとけっして思わなかった青春のときからさらに遠く、ペットボトルに残ったウイスキーをなめながら、若い人たちの幸せな時間を見ていた。

   *堀川正美「新鮮で苦しみおおい日々」
 
   時代は感受性に運命をもたらす。
   むきだしの純粋さがふたつに裂けてゆくとき
   腕のながさよりもとおくから運命は
   芯を一撃して決意をうながす。けれども
   じぶんをつかいはたせるとき何がのこるだろう。
   (後略)                 
         詩集〈太平洋〉所収、出典:現代詩文庫29『堀川正美詩集』(思潮社)
by waimo-dada | 2012-09-11 10:48 | 山と旅

山靴に優しい宿

 山道をとことこ歩き、日暮れて湯の宿に泊まる。この国の豊かさをしみじみと思うときである。
 日本人に生まれて良かったなあとひとりつぶやく。そんな山と宿がこの国にはいっぱいある。ただ惜しむらくは小さな国土に大きな人口を抱え同好の士も多いので人気の山と宿は混む。新緑のころ、夏休みのころ、紅葉のころ、山道は人で渋滞し、宿はいっぱいになる。それを承知で出かけるか、人の多い季節を避けるか、人があまり来ない山に行くか、選択肢はいくつもないが、出かけないでじっとしているといつか寿命が尽きるので、ともかく出かける。
 そんないい加減な人生が曲がりなりにも続いてきたのは、大きくみれば運がよかったからであり、小さくみればたまに運のよいことに出会ったから。失業していた時代は短かったので旅をするくらいのお金はいつもあった(注.わたしの旅は1泊2食450円のユースホステルから始まった。どこでも寝ることができるという特技ももっているので、旅はいつも少しのお金で十分だ)。そして、出かけた山や宿で思いがけない光景や幸運に出会うことがあった。

 雨にあって濡れた山靴を丁寧に乾かしてくれる小さな宿がある。
 新聞紙を丸めて詰めて一晩、乾燥室に置く。客が出立するころに靴を玄関に並べる。それだけのことがどれだけうれしいか、雨に濡れた昨日の足がよく知っている。洗練されたもてなしが評判を呼ぶというような高級和風の宿ではない。この国ではありふれた山際の宿がきちんといい仕事をする。
 ついでながらに言えば、雨の山道で汚れた山靴を脱ぎっぱなしにする客は本来の日本人ではないというのがわたしの考えだ。疲れているが水で洗うなりして山靴の顔を立てる。それを受けて番頭さんがいつもどおりの仕事をする。だれに言われたからするというのではない。日本は地味ですが誰彼となく気遣いをする人の国ですと、外国の方に言いたいときがある。

 いまも次の宿に感謝します。奇しくも両宿とも観光案内所に紹介されて泊まった。担当の中年女性がわたしの希望を聞いて選んでくれた。その方たちにも感謝したい。
◯林家旅館(群馬県みなかみ町湯檜曽温泉、15,000円+税、2007年6月上旬泊)
◯民宿まえだ(岐阜県高山市栃尾温泉、8,400円+入湯税、2009年8月上旬泊)
 
by waimo-dada | 2012-04-27 12:29 | 山と旅