N爺の藻岩山麓通信 |
夏は祭り。祭りの主役は神社の神様。人間さまではない。
東京にかぎらず町を歩くのが好きで、あちこち歩いて来たなかで、東京は別格の神社の町である。京都の、辻々の祠まであるのは西の別格というべきで、東京は東の別格ながら開発の圧力によく堪えてきた、という点で一種の凄みがある。同様なことは京都にもあったのだろうが、東京は大空襲の嵐を受けてのち再建する、再開発にあわせてモダンな神社を建設するといった、反圧力とか神社力といいたいものを見せつけるところが偉い。偉いなんていったら神様に怒られそうだが、神様の偉さを知っている江戸・東京の民が偉い。 そのようなことをだんだん理解できるようになると、町歩きと神社との出会いがますます好きになる。 神社の話をして怒る人はいないので、町で会った人に話しかけるきっかけにもなる。旅の人間にとってありがたい存在である。先日も、根津美術館を訪ねた帰りに寄った青山のイッセイ・ミヤケ(フォー・メン)の店で係のお姉さんと次の冬のオーバーコートの話をしてから真向かいにあるお稲荷さんの話になったおり、瞬間だがお爺さんとお婆さんがしみじみと語るようなあんばいがして楽しかった。 「ずいぶん前からあるんです・・・」 「ですねえ・・・」 最先端のモードと街角のお稲荷さんがつながる地下水の水みちは、考える以上に太いのであった。 最先端の建築と神社の関係もおもしろい。 モダン神社の代表格である神楽坂の赤城神社は隈研吾の手になる。わたしの好きな根津美術館の設計者である。先日の根津美術館では前回訪問時の反省からジックリ歩くぞモードにしていたので、庭園の奥まで丹念に歩いた。そうしたら菅原さんが祀られていた。美術を愛する根津さんは学問学術もまた大切に考えていた。 そんな奥行きのある美術館のアプローチに隈さんは竹林を配した。忙しい訪問者を訪なう客に変える、この国の伝統的な作庭の技法が美しい。町の騒々しい圧力をやんわりと押さえつけ、人の歩みを美術館モードに転換させる。ゆったりとわくわくが数秒でできあがる。 で、神楽坂の赤城神社の話。なんで神楽坂にあるのか。赤城神社は赤城山の山麓でしょ。かかる反応は神社に関する基本的認識が欠けているゆえに生じる。そもそも偉い神社は偉いのである。群馬県勢多郡宮城村(現前橋市)におわす赤城神社の神様のありがたいことに感銘した江戸の民が神楽坂に神様をお招きした。自然な話ではないか。そこにはわたしが生まれ育った勢多郡大胡(おおご)町を基盤とする豪族大胡氏が関わるのだが、神楽坂の赤城神社のサイトから縁起をご覧いただくことにして省く。 と、勢いで希望的観測を書いたが、サイトの「御由緒」によると、「正安2年(1300年)、後伏見天皇の創祀に際して、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まり」となっている。しかし、大胡さんが南関東に移住する際にお連れ申しあげたというのが本当だとしても、お連れしようと決断した背景には赤城神社の祭神に対する並々ならぬ思いがあるわけで、やはり赤城神社の神様は偉いのである。いまは郷里を遠くはなれて北海道に住むが、本家筋に地縁でつながるわたしがかように断じることを、赤城神社の神様はきっとお許しになるにちがいない。 神楽坂の赤城神社にはカフェもある。東京でもっともクールな神社のひとつである。 東京は、歩けば神社がある。 東京都写真美術館を訪ねた足で駅前を歩き、厚岸のカキとタコのガーリックライスを喰って店の外に出たら、すぐ近くに恵比寿神社があった。小振りながら鎮守の森つきで。なんともありがたいことである。小さなお子さんを連れたお母さんがお参りにきていた。 また、銀座のど真ん中の資生堂裏の路地をたどればお稲荷さんを祀る祠がある。居具合がまことに見事であるのは、近隣の民のささやかな信仰をずっと集めてきたからだ。それもうれしくて、そっと手を合わせた。 そんな町歩きがこれからも続く。
by waimo-dada
| 2013-07-13 00:53
| 山と旅
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