N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

いつもラジオから風が吹いていた

 深夜、そっとラジオの音に耳を傾ける。
 むかし、ラジオが家庭の真ん中にあったときの名残である。ひとりきりの書斎にいても大きな音にはしたくない。
 真空管時代の大きな木箱のラジオは家族全員の情報プラットホームであった。日々のニュースから落語、講談、演歌、アメリカンソング、クラシック、ドラマまで、家庭の耳を満たす黄金の箱であった。
 それがトランジスターラジオになった。戦後の文明的爆発はこのトランジスターラジオの出現によるとわたしはいまもそう信じている。ラジオがいっぺんに小型になり、個人のものとなった。初めて自分のラジオを所有したときの興奮を微熱のようにいまも覚えている。世界がいっぺんにそこに来た。ソニーが世界で初めて制作したトランジスターラジオは、さあこれから本格的に生きていくからねという戦後ニッポンの熱い想いと接吻した。性能上は大した変化はないのに、幸せなラジオと人の関係が生まれた。

 ソフト面の変化も大きかった。「S盤アワー」という人気番組がいろいろな音楽の流行を教えてくれた。といっても、そのほとんどはアメリカ音楽だった。青少年の耳を通して体に入ってくる文化はほとんどアメリカ産。ちょうど、口を通して入ってくる学校給食の脱脂粉ミルクがアメリカ産の豚の餌だったように。
 選択の余地はなかった。漢学の素養もなければ日本古来の文芸諸般のたしなみもない戦後の国産青少年の余暇にささりこんだほぼ99%アメリカ産のポピュラーミュージックが、わたしたちのラジオ的身体を規定した。それはしかし楽しいことだった。伝統的な文化規範から遠く孤独な無個性を生きていた青少年たちにとって、アメリカ音楽はわかりやすく、乗っていける現代文明の軽車両、自転車のようなものだった。

 ラジオドラマをよく聴いた。「笛吹童子」(NHK、1953.1〜12)と「赤胴鈴之助」(ラジオ東京、1957.1〜1959.2)が人気だった。婦女子に大人気だったのは「君の名は」(NHK、1952.4〜1954.4)。放送の時間帯は銭湯の女風呂ががら空きになったという伝説が生まれた。
 テレビ放送が始まったのが1953年2月だから、わたしたちがラジオの前に集まっていた時代と重なる。当時、テレビは、電球や電気アイロンを売っている電器屋さんの店先で見るものだった。一般の家庭がテレビの時代を迎えるにはお金と時間が必要だった。
 それからしばらくして長いテレビの時代に突入したが、テレビはいま首長竜のように肥大化して衰退した。見るに値する番組はあるのだがインターネットを含む巨大な情報の海のなかで希釈されてしまい、存在が薄い。ではラジオはどうかというと、少数派を続けるなかで生きていく体と道を見つけ、絶滅危惧種にならなかった。なにより大喰らいでないのがよかった。
 聴く側も大喰らいではなかった。家族の人数は多いが所帯が小さい。いつも始末にしていた。

 仕事をしながら勉強をしながら、うたた寝をしながらラジオを聞く。いいなと思う音楽があったらすぐにラジオ局のホームページから楽曲を確かめてネットで調べる。そのままネットで簡単に購入することもできる。
 便利な時代になったからラジオが生きているという面もある。メールのメーリングリストやフェイスブックで、知人がラジオに出演するという情報が流される。聴き逃すまい、と録音の準備を始める・・・。
 で、ここからはわたしの抱える個人的問題。
 わたしが所有するラジオではテレビのように簡単に録音予約をすることができない。放送される日の時間と局しか指定できない。それがまた大変にむずかしい。操作が何手順もあって、10秒以内にキーを操作して選択しないと前に進まない。わが国の優秀な技術者がなぜ年寄りいじめの機械とプログラムを開発したのか、わたしの疑問は晴れぬままである。音はいいので買い替えるという選択肢はない。すぐれた音響メーカーが手がけた真面目でへたくそなCD・MDラジオ。まもなく骨董品として値がつくはずだ。

 たまにラジオドラマを聴く。傑作に出会えたときの喜びは大きい。NHKのFMシアターで2009年12月に放送された倉本聰さんの「マロース」のような傑作にまた会いたいなあ。
 人生は日々凸凹。録音できたり、できなかったり・・・。
 ラジオな日々がまた爽やかな夏を迎えた。
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by waimo-dada | 2013-06-24 14:57 | ラジオな日々
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