N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

新前橋駅(2)

 新前橋の周辺にこだわる。

 「新」のつくところはいずこも同じだが、新前橋駅には詩人が郷土を離脱し、郷土に帰着する際の記号のような匂いがある。そんな匂いに引かれたとしても、萩原朔太郎の新前橋駅は自己を握って立つ現場でなければならなかった。とすれば、郷里、郷土というのは、自己と決着しがたい難物ではなく、むしろありがたい。朔太郎はそのあたりをうすうす承知で「新前橋駅」を書いたのではないか。
 朔太郎は確かにこの国のあちこちを旅した。しかしそれは妹を亡くして北上する宮澤賢治の樺太でなければ、妻を伴って一種無頼の旅を続ける金子光晴の巴里でもなく、まして司馬遼太郎のニッポンと世界のありようを探求するように大股で「街道をゆく」旅ではなかった。
 そうであるなら、劇的な詩歌をうたう詩人が劇的な旅をしなかった、という事実だけが残される。
 萩原朔太郎の旅がどのようなものであったか。彼なりのごく自然な漂泊の旅であったのだろうが、その表情の奥底をわたしは知ろうとしてまだ知らないでいる。 
 やがて明治期からの壮大な夢と失望がともに終わるときを迎え、時代と若者は過去の精神に無頓着に旅に出る自由とわずかな金を得る。戦後の新前橋は南の首都と北の山岳地帯に旅立つ駅、経済と精神の分岐点ないし結節点に位置することになる。

 経済の高度成長を迎えた一九六二年の春、新前橋に程近い前橋市と高崎市の境界に国立群馬工業高等専門学校が両市の誘致合戦の末に建設された。翌六三年、校歌の作詞を依頼された詩人佐藤春夫が、桑畑が広がるばかりの校舎を訪れた。春夫はわたしたち生徒が見つめるなかを思いのほかしっかりとした足取りで、技術者養成のために建設された匂いのない校舎を歩いた。
 「桑園開けてわが校舎」と、校歌の冒頭に無機質でありながら情況をみごとに俯瞰する詩句をおいたのは、あわただしく転換する時代への無言歌であったか。
 翌年、詩人は静かに世を去る。

 ささやかな思い出のついでに言えば、校歌の作曲を任された信時潔(のぶとききよし)のメロディは悪くなかった。
 まだ舗装もされていない道をバスに揺られて桑畑のなかに小島のように浮かぶ学校に通い、国立なのに整備が不十分な運動場で体育の時間に「土建体育」と称して石拾いに励む。のどかなと言えば言えなくもない上州の新しい荒地に立ってゆったりとしたテンポで榛名山に向って歌う校歌には、典雅で高潔な何かがあった。
 信時が大伴家持の歌に乗せて作曲した「海行かば」が軍事大国ニッポンの死に際に利用されたことをわたしが知るのは、それから何十年もたってのことである。信時潔の仕事は実直そのものに見えた。氏もまた佐藤春夫の後を追うように一九六五年に世を去る。
 いま思うことであるが、それは高度成長を下支えする技術者養成学校の校歌を明治の人がつくり、若い者たちに新しい希望を託して明治の時代に帰って行くという、この国の近代の小さな後姿であったにちがいない。

 そのころ、もう貧困にあえぐことはないが戦中と戦後の記憶を抱える親たちは新しい時代を先導するかもしれない国策に呼応するかのように、子どもたちを高専に送ろうとしていた。手に職を持たせる。そこまではやる。子どもが一人立ちするのを楽しみに。それが親たちの自らに課した義務であり、自分の存在の証明にしようとしていた。子どもたちはそんな親たちを厄介に思いながらうれしくも感じた。そうして入試の競争率は十数倍を数えた。そのなかにわたしがいた。
 新しく切り開かれたバイパス道路と桑畑の向こうにわたしは小さなナットかボルトのように置かれた。工業化を進めるニッポンの中堅技術者となることを求められていた。
 
 ある日のことだった。
 「中堅技術者って何ですか」と生徒たちが学校当局に穏健に問いただす場面があった。自分たちが時代のなかでどのように位置づけられるのか、直感的にわかってはいたが確証が欲しかった。が、わかりやすい回答はやはりなかった。子どもたちは優しく手なずけられるべき対象にすぎなかった。
 管理者は誠実に「工業の現場で生産性を高める誠実なボルトになることが君たちの使命だ」と言うべきであった。
 国立大学の教授を長く務めたらしい白髪の温厚な校長S氏は、わかっていてもそうは言えなかった。おかれた立場からは、せめて「新しい時代を切り開く現場のプロがひとりでも早く育って欲しい」と言うべきであったろうに。しかし、心にないことは言わない。言えなかった。そんなS校長の誠実が幼いわたしの骨格に栄養を与えたことを、わたしはいまひそかに誇りに思う。
 
 そのころもいまも子どもたちは少しも愚かでない。ある者は状況を瞬時に理解して明るく楽しい学園生活を選び、ある者は悩んだ末に大学進学に転じ、またある者は灰色の時間にいるばかりの自分を見つける。そんな子どもたちの何人かが深夜、新前橋の駅から国境の山々へ、生と死の匂いの充満するあたりへ、どこか心に秘めるようにして旅立つなど、親たちには思いもよらなかった。 
 明治以来貯えてきたものがあの戦争ではじけた。バブル経済の崩壊などとはあまりにもスケールがちがう時代の転換をわたしの父母の世代は心身で丸ごと深く体験した。
 このことは、彼らの名誉とニッポンの歴史のために後世に伝えなければならない。
 わたしはその総括なくして現在と未来について言及できない。

 学校の寮から新前橋駅までは歩いて三十分もかからない。高度成長の続く一九六〇年代前半の週末、上野発秋田行きの夜行列車は同世代の若者を満載して関東の平野から北方の鉄の山岳地帯に分け入ろうとしていた。新前橋の駅が暗い街灯の下で輝いて見えた。汽車の車輪がひとしきり平野の夜の底を軽く軋んでみせた。
 やがて汽車は若者たちのいくらか屈折した気分を重ねるように横たえて走り出した。通路で新聞紙を広げて仮眠できたら幸運という当時の国鉄にとってはありがたい満席満車市場(マーケット)、旅の形が生まれていた。そんな時代にわたしは途中乗車した。
 いま、国立群馬高等工業専門学校の周辺にどれだけの桑畑が残されているだろうか。養蚕が消える群馬に先端的な中堅労働者養成機関を設置したというなら、それは戦争に負けてまた這い上がろうとする昭和の後期に新たな富岡製糸工場を植え付ける、時代の作業にほかならなかった。
 そのときわたしと学校と国家は、好むと好まざるとにかかわらずひとつの場所にいた。

 (ひとまず本州の、郷里の駅について閉じる。次は北海道の駅に飛ぶ。いや、そうはいかない。世話になった土合・土樽にふれなくてはならない)
by waimo-dada | 2013-06-14 01:03 | わたしの駅
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