N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

新前橋駅(1)

 第二次世界大戦後、前橋あたりに生まれて山が好きになった若者の多くは、上越線の列車に乗って国境の山に向った。新前橋駅が山の旅の出発点となり、ほとんどの人が帰着する駅となった(まれに還らない人もいた)。
 いまはごくありふれた、建て込んだ町並みに忙しく車が行きかうこの土地の記憶を訪ねるには、再び萩原朔太郎氏の力を借りなければなければならない。氏が鉈と剃刀を両手に持って時代と自分に対した連作詩集『郷土望景詩』の「新前橋」はまず、彼に押し寄せる文明に対して生理的な不快感を表出する場、時代の代理人的な新開地として登場する。

 野に新しき停車場は建てられり
 便所の扉風にふかれ
 ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。

 この書き出しは作者自身が選んだ風景に対する挨拶のようなものであり、「新」という字が付く町の悲哀についてあえて語る必要はないだろう。
 続けて氏は「この暑さに氷を売る店とてなく、まわりは麦畑が広がるばかり。望みのない心を癒すには旅に出るほかないとわかってはいる。しかし、いまのわたしは古びた鞄をさげてよろめく痩犬だ」といったことを、疾走するようにうたう。

 われこの停車場に来りて口の渇きにたへず
 いづこに氷を喰まむとして売る店を見ず
 ばうばうたる麦の遠きに連なりながれたり。
 いかなればわれの望めるものはあらざるか
 憂愁の暦は酢え
 心はげしき苦痛にたえずして旅に出でんとす。
 ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
 われは痩犬のごとくして憐れむ人もあらじや。
 いま日は構外の野景に高く
 農夫らの鋤に蒲公英の茎は刈られ倒されたり。

 そして、まるでいまのわたしたちがテレビでワグナーの楽劇を見るように劇的な詩句で風景を閉じる。

 われひとり寂しき歩廊の上に立てば
 ああはるかなる所よりして
 かの海のごとく轟ろき 感情の軋りつつ来るを知れり。

 朔太郎の「新前橋」は時代という舞台上で個人の精神と肉体の流れを視覚的に描いた点で画期的な「演劇詩」となったが、そこに潜む思い定めのようなものを捨て置くことはできない。自らの旅、すなわち出立について言いよどむのは、当時裕福な家に生まれたゆえに郷里と厄介な関係を持ちつづける「名家の居候」の萩原朔太郎氏が、大いなる出立を経済的な理由からだけではなく郷里との全体的関係から、自己保存という動物的な直感に基づいて自ら抑制したか、旅することへの夢想において劇的ではなかったかのどちらかに起因する、と思われる。
 『虚妄の正義』所収の「旅行」で、萩原朔太郎氏が、

  旅行の實の楽しさは、旅の中にも後にもない。ただ旅に出ようと思った時の、海風のや
 うに吹いてくる氣持ちにある。
  旅行は一の熱情である。恋や結婚と同じやうに、出發の前に荷造りされてる、人生の妄
 想に充ちた鞄である。

と美しく明瞭に書いたところで、いや、旅の本義に関わる部分に賛同すればこそ、けっしてそれだけではあるまいと言い掛かりをつけたくなるものが残る。旅行を夢想すること自体が朔太郎氏の特権に属した。しかし彼が、彼の現実を書いたのも紛れもない事実であった。
 彼の足元に戻ろう。
 萩原朔太郎は郷里とよく粘着する詩人であった。旅に出ることは、する。実際、彼は関東を中心に本州各地の旅をよくしている。東北の医師に嫁いだ妹の幸子を連れに避暑に出かけるあたりなど、戦前の中産階級のゆとりと知識人の自由が感じられる。妹との旅はなかでも心休まる旅であったろう。が、何かを振り払うような旅はしない。彼には粘着して戦う確かな現場がなによりも必要であったからだ。闘いと保身と自己説明が新前橋駅でてんこもりの熱情となり演劇詩となった。
 それは戦後の少年の旅と無縁ではなく、実質において人知れず密通することになる。
by waimo-dada | 2013-06-14 00:51 | わたしの駅
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