N爺の藻岩山麓通信


札幌・藻岩山麓を基地に旅するN爺のブログです(写真は原始ヶ原から富良野岳)
by waimo-dada

前橋駅(1)

  いつごろまでのことだったろうか。駅前の欅並木を北に歩くと、足がふと軽くなる地点があった。
 前橋駅から国道50号を越え、上毛電鉄の中央前橋駅へゆるやかに下ろうとするきわに、赤城山が外輪山の鍋割山を中心にすえて現れる。
 そこに差しかかると、いつも空が大きくなるのを感じた。
 前橋は関東平野の縁にあるが、山の町というほど奥まってはいない。町の西の縁を利根川が太く、赤土の関東ローム層とその下の地層をえぐって流れる。が、土地の全体はのびやかで屈するところがない。そこに赤城山がなかったら、平板な町という印象が残るかもしれない。
 群馬県民に親しまれている上毛かるたで「裾野は長し赤城山」とうたわれる赤城山。
 その山は、どこから見ても裾野が長く、美しいだけでなく、平野が北に広がるのをしっかりと押さえていて、ここから山地が北に続くことを静かに思わせる。そんな容量を兼ね備えながら平野を飛び抜けているわけではなく、昔から静かにそこにあるふうな地味な山塊でもある。美しいが平凡な、見方によっては土地の誇りと因襲を象徴する点においても日本的な名山と言える。
 前橋という町と赤城山の関係は、裾野の分の距離だけ隔てられる。それがあるとき、平凡な者同士のおだやかな婚姻に見えもし、予想を越えた人と自然の関係を見せもする。
 
 わが国の山はどこでもそうであるが、赤城山はとりわけ人の目にふれる条件にあったのか、人の思いと世の移ろいをその名に記すことになる。しかし、詩歌を能くする人々が郷里の山河をおおらかにうたい残すという至極自然な人の世の習いのなかで、前橋というどこにでもある保守的な町は、皮肉にも新鮮な詩歌の旗手を持たされた。萩原朔太郎という奇跡である。
 よく知られた「帰郷」という詩の一節。

  わが故郷に帰れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽車は闇に吠え叫び
  火焔は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。

 この「上州の山」に占める中心的存在が赤城山ではなかったか。
 萩原朔太郎の「帰郷」は、北に向って疾走する夜汽車と詩人の暗く熱する身体から生まれた。そして、近代の文明とそれをどこか愛しながら強烈に反発する精神とがもつれ合い、はげしく北上する夜のベクトルを受け止める器は、郷土の物理を代表する赤城山しかなかったと思える。
 そう考える背景に、同じ詩人の「才川町」がある。その一節。

  わたしの暗い故郷の都会
  ならべる町家の家並みのうへに
  かの火見櫓をのぞめるごとく
  はや松飾りせる軒をこえて
  才川町こえて赤城をみる。

 ここにひそかな緊張感で観察される赤城は、うたわれる状況において「帰郷」の山と異なる質量がある。「こえて」みる詩人に対して、赤城は何も語らず、たおやかに北に位置している。
 町が木造の町屋を低くならべていた時代に、赤城はいまより大きく近く望むことができた。
 「才川町」は、『郷土望景詩』のほかの詩と同じく、ある地点に沿ってうたわれた。「才川町こえて赤城をみる」地点が先ほどの箇所である。赤城はかかる地理的な地点で存在を一気に大きくする。春の陽炎のときも、上州の冬のすさぶる風のときも、詩人の背後を支えた山ではなかったか、と一瞬思える。 
 しかし、赤城は、朔太郎の背後を守ったのでもなければ、彼を受け入れない郷土を象徴するものでもなかった。赤城はまず質量としてあった。「才川町こえて赤城をみる」という素っ気ない句が切実に響くのは、町の背後に山がある、山の前に師走の町がある、という事実にある。そのありかたが質量を越え、心情に迫る地点があったがゆえに、郷土を捨てたに等しいわたしなどが、朔太郎の目を通じて赤城を見ることになるのかもしれない。
by waimo-dada | 2013-06-06 21:42 | わたしの駅
<< 前橋駅(2) 体育会が文化を支える? >>